カイロ会談とテヘラン会談
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「カイロ会談とテヘラン会談」の解説
1943年11月、エジプト・カイロでルーズベルト、蔣介石と会談を行い、対日問題を協議した(カイロ会談)。ルーズベルトは蔣介石と仲が良く、以前から香港を日本から奪還したらイギリスではなく蔣介石に渡そうと目論んでいた(香港奪還後イギリス軍がただちに香港総督府にイギリス国旗を立てて植民地統治を再開したのでこの企みは阻止できた)。さらに戦後には中華民国を第四の大国にしようなどという構想さえ思い描いていた。チャーチルは中華民国など全く興味がなかったし、蔣介石とも話はしたが、何の感銘も受けなかった。こんな国を第四の大国にしようなどというアメリカの考えには到底賛成できなかった。 続けて、11月から12月にかけて英ソ占領下のイラン・テヘランでルーズベルトとスターリン、チャーチルの初めての会談を行った(テヘラン会談)。ちょうどこの会議中にチャーチルは69歳の誕生日を迎えたため、3人はバースデーケーキの前で会談した。この会議で翌年5月にも米英軍が北フランスと南フランスに上陸作戦を決行することと、それに呼応してソ連軍が攻勢に出ることが約束された。またチャーチルは地中海のイギリスの覇権を確保しようとエーゲ海方面での作戦を提案したが、ルーズベルトに阻止された。会議ではスターリンの高圧的な態度が目に付いた。だがルーズベルトは「スターリンはチャーチルと違い帝国主義者ではない」と思っており、スターリンに好感を持っていた。何百万人も殺戮してきたスターリンに好感を抱くルーズベルトとは感覚が違い過ぎることを痛感させられる場面もあった。戦後のドイツ軍将校たちの処分について三巨頭の間でこのような会話があったという。 スターリン「5万人は銃殺すべきだな。特に参謀将校は全員銃殺だ。」 チャーチル「そんな大量処刑は英国議会も国民も黙ってはいない。そんな非道を許して私と我が国の名誉を汚すぐらいなら、私は今この場で庭に引きずり出されて銃殺された方がマシだ。」 ルーズベルト「では、こう言う中間策でいこうではないか。4万9000人を銃殺だ」
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