カイロ会談とテヘラン会談とは? わかりやすく解説

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カイロ会談とテヘラン会談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)

ウィンストン・チャーチル」の記事における「カイロ会談とテヘラン会談」の解説

1943年11月、エジプト・カイロでルーズベルト蔣介石会談行い対日問題協議したカイロ会談)。ルーズベルト蔣介石と仲が良く以前から香港日本から奪還したイギリスではなく蔣介石渡そう目論んでいた(香港奪還イギリス軍がただちに香港総督府にイギリス国旗立てて植民地統治再開したのでこの企み阻止できた)。さらに戦後には中華民国第四大国しようなどという構想さえ思い描いていた。チャーチル中華民国など全く興味がなかったし、蔣介石とも話はしたが、何の感銘も受けなかった。こんな国を第四大国しようなどというアメリカ考えには到底賛成できなかった。 続けて11月から12月にかけて英ソ占領下のイラン・テヘランでルーズベルトスターリンチャーチル初めての会談行ったテヘラン会談)。ちょうどこの会議中チャーチル69歳誕生日迎えたため、3人はバースデーケーキの前で会談した。この会議翌年5月にも米英軍が北フランス南フランス上陸作戦決行することと、それに呼応してソ連軍攻勢に出ることが約束された。またチャーチル地中海イギリス覇権確保しようとエーゲ海方面での作戦提案したが、ルーズベルト阻止された。会議ではスターリン高圧的な態度が目に付いた。だがルーズベルトは「スターリンチャーチル違い帝国主義者ではない」と思っており、スターリン好感持っていた。何百万人も殺戮してきたスターリン好感を抱くルーズベルトとは感覚違い過ぎることを痛感させられる場面もあった。戦後ドイツ軍将校たちの処分について三巨頭の間でこのような会話があったという。 スターリン5万人は銃殺すべきだな。特に参謀将校全員銃殺だ。」 チャーチル「そんな大量処刑英国議会国民黙ってはいない。そんな非道許して私と我が国の名誉を汚すぐらいなら、私は今この場で庭に引きずり出され銃殺された方がマシだ。」 ルーズベルト「では、こう言う中間でいこうではないか。49000人を銃殺だ」

※この「カイロ会談とテヘラン会談」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「カイロ会談とテヘラン会談」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。

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