改装前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 09:41 UTC 版)
改装前の施設配置は以下の通りである。 階 主な施設 3階 会議室、文書収蔵庫(古文書)、図書室 2階 展示ホール(高瀬舟模型・帆曳船写真)、常設展示室、第3収蔵庫(書画、絵画、工芸品) 1階 事務室、展示ホール(受付、休憩・ビデオコーナー、花火筒)、特別展示室、第1収蔵庫(考古・民俗)、第2収蔵庫 地下1階 視聴覚ホール、補修工作室 2階の常設展示室は303m2と限られていることや、児童の分かりやすさを重視して通史展示を採用していた。プロローグ、土浦のあけぼの、武家社会のはじまり、江戸時代の土浦、近代土浦の歩み、躍進する土浦の6つに分かれ、来館者は時代の流れに沿って観覧した。通史展示ながら、開館当初の所蔵資料が原始・古代(土浦のあけぼの)と近世(江戸時代の土浦)に偏っていたことから、この2つのコーナーが大きくとられていた。常設展示室の展示は固定的であったため飽きられてしまい、来館者数は年々減少していった。 地下1階の補修工作室は名称通り資料の補修作業に利用したほか、体験教室や博物館講座の会場としても利用した。
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改装前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 22:26 UTC 版)
改装前の長門型は石炭と重油の双方を燃料としていた。航続力は16ノットで5,500浬。当初の計画では4軸合計60,000馬力で速力25ノットを予定したが、ジュットランド海戦の戦訓から速力増大の要求があった。そこで汽缶を増載するとともに、新型の減速式タービン(日本製、艦本式)を搭載した。これは日本戦艦として初の試みであった。これより計画案より20,000馬力強化され、1.5ノット増加の26.5ノットを達成した。竣工時の「長門」は26.44ノット、「陸奥」は巡洋戦艦並みの速力26.7ノットを記録したが、速力は機密とされ、23ノットと公表されていた。1920年代の米国資料には「日本の公称は23ノット、でも機関の能力から考えて24.5~25ノットは出るはず」とあり、1936年に米国で出た大改装前の長門を示す資料でも、24.5ノットと認識されていた。 関東大震災の際、演習のため渤海湾に集結していた聯合艦隊(聯合艦隊司令長官は竹下勇大将、「長門」に坐乗)は救援のため演習を中断し、救援物資や食料を搭載して東京湾に急行した。連合艦隊参謀として長門に乗艦していた福留繁大尉は「長門は最大速力26ノット(公称22ノット)で東京湾に急行したところ、イギリス東洋艦隊旗艦の巡洋艦プリマス (HMS Plymouth) に追跡され、本当の速力を見破られた」と回想している。この巡洋艦はプリマスではなく、実際には、英海軍のダナイー級軽巡洋艦ディスパッチ(英語版) (HMS Despatch,D30) であるという。「長門」は後方に英軽巡ディスパッチ (HMS Despatch,D30) を確認し、最高速度に係わる機密が漏洩するのを避けるために速度を落とした。長門型の最大速力が26.5ノットであることは重大な機密事項であるため、公海上でみだりにその速度を発揮することは禁じられていたため。ディスパッチは、「長門」坐乗の竹下大将に礼砲を行ってから、「長門」を追い抜いて横浜港に向かった。1923年(大正12年)9月18日に兵庫県知事から海軍大臣宛に「英艦『デイスパツチ』入港ス」という報告があった旨の記録がある。 就役後の長門型戦艦は運用面で艦隊側から、良好な評価を得た。加速・減速性能は就役中の日本戦艦で最良であり、旋回半径は扶桑型や伊勢型よりも大きかったものの、速度低下は少なかった。舵の利きもよく、艦の保針も容易であることから、日本戦艦で最良の運動性を持つと評価された。
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