第16任務部隊司令官
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「ウィリアム・ハルゼー・ジュニア」の記事における「第16任務部隊司令官」の解説
1940年6月13日、中将に進級し、航空戦闘部隊司令官兼第2空母戦隊司令官に就任。合衆国艦隊の全空母の指揮権を持った。太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官はアナポリス同期のハズバンド・キンメルであった。11月27日、アメリカが「日米交渉を打ち切り、一週間以内に何らかの軍事行動に出る」という日本の外交暗号を傍受すると、これに対応すべく、ハルゼーは第8任務部隊を率いてウェーク島に航空機を輸送する任務を受ける。この任務は、日本に傍受されると日本を刺激すると判断され、11月28日に秘密裏に出港した。ハルゼーは、万が一日本を刺激した際にどこまでやってよいのかをキンメルに尋ねたが、「(俺が責任を取るから)常識で判断しろ」と回答を得て、「これまで受けたうち、もっともすばらしい命令」と満足した。また、キンメルから「心配だったら戦艦を連れて行くか?」と気を使われたが、「とんでもない!あんなノロマ、逃げなければならない時にジャマになるだけだからいらない」と答えている。12月6日にパールハーバーに到着予定だったが、途中部隊が荒天に突入し、駆逐艦の1隻に亀裂が発生、到着予定を12月7日正午に変更した。真珠湾攻撃のニュースはホノルル西方150マイルで聞く。キンメルの判断により、9時21分に洋上の全艦船の指揮権と、空襲規模と来襲方角から日本軍の空母は6隻で、予想避退針路は北西との情報を得ると、兵力の合同と索敵を行い、12月8日日没にパールハーバーに帰港した。後にウェーク島の救援に向かおうとしたが陥落の報を聞き、12月31日に再び帰港した。 12月31日、キンメルの後任として、アナポリス一期下のチェスター・ニミッツが太平洋艦隊司令長官に着任。1942年2月中旬、第16任務部隊が編成され、ハルゼーが司令長官に任命された。フランク・フレッチャー少将が指揮する第17任務部隊とともに日本の拠点に空襲を開始する。この空襲では、ハルゼーが立案したヒットエンドラン作戦が実施され、日本は米空母を捕捉することができなかった。ハルゼー艦隊は、まずマーシャル諸島西部、マーカス島を空襲し、4月にはドーリットル空襲を実施した。 1942年5月末、皮膚病で入院。ハルゼーは、麾下にいた第5巡洋艦戦隊司令官レイモンド・スプルーアンス少将を、航空は専門外であったが、代行指揮官に推薦し、6月のミッドウェー海戦でスプルーアンスは勝利を収めており、ハルゼーの人物眼は確かなものであった。6月14日、米本土バージニア州リッチモンドの病院に移送され、ついでに歯槽膿漏も治療してもらい、8月5日に退院する。
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