ジャワ沖海戦とは? わかりやすく解説

ジャワ沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/20 08:41 UTC 版)

ジャワ沖海戦(ジャワおきかいせん)は、第二次世界大戦太平洋戦線において、1942年昭和17年)2月4日に東南アジアで生起した日本海軍航空隊と連合軍ABDA艦隊との間の海戦[1]基地航空部隊一式陸攻九六陸攻が連合国軍巡洋艦部隊を攻撃して大戦果を報告したが[2]、実際は軽微な被害であった[3]


注釈

  1. ^ “馬来作戦”について、戦史叢書では“馬來作戦”と表記することもある。また1942年(昭和17年)1月3日付で南遣艦隊は第一南遣艦隊に改称した[11]
  2. ^ 比島作戦の進展により、従来の比島部隊は新編“比島部隊”(指揮官:第三南遣艦隊司令長官杉山六蔵中将)と“蘭印部隊”(第三艦隊長官)に分割された[11][13]
  3. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』、255ページでは「アメリカ駆逐艦4隻とオランダ駆逐艦4隻」と記述する。
  4. ^ (昭和17年2月4日記事)[28]○第十一航空艦隊(三-一六三〇)航空偵察「祭連」海北岸「パメカサン」湾口ニジャバ型(初メ戦艦ト云フ)二隻、甲巡一、乙巡二、駆逐艦九停泊中(四日之ヲ攻撃スル旨発令アリ)。
  5. ^ (昭和17年2月7日記事)昨日、ジャワ海にて米蘭連合艦隊を襲撃し、米巡1、蘭巡3撃沈せり。蘭印主力部隊大半を失う。各部隊赫々たる戦果を挙ぐ。目下航空撃滅戦展開中にして、敵空軍撃滅をもってL作戦を実施せらるる予定なり(以下略)[46]
  6. ^ 二.我軍一般情勢[50](イ)馬来方面 第二十五軍ハ一月三十一日「ジョホールバール」ニ突入之ヲ占領シ目下「新嘉坡」攻畧作戰準備中ニシテ二月八日ヲ期シ總攻撃ニ転ゼントスル対勢ニ在リ 一方「ボルネオ」作戰中ノ川口支隊ハ一月二十七日「レド」飛行場ヲ一月二十九日「ボンチヤナク」ヲ占領飛行場ノ修復ニ努メツツアリ/陸海軍航空部隊ハ「シンガポール」方面ヘ頻繁ニ往復スル敵艦艇及輸送船ヲ猛爆多大ノ戰果ヲ挙ゲルト共ニ逐次馬来及「ボルネオ」占領地区ヘ基地ヲ進出シ「ヂャバ」「スマトラ」方面ノ航空撃滅戰ニ備ヘツツアリ/馬来部隊海上兵力ノ大部竝ニ第三十八師団ハ一月末「カムラン」湾ニ集合ヲ終リ二月十日ヲ期シ「バンカ」「パレンパン」ノ攻畧ニ転ゼントス 之ニ引續キ第十六軍ハ二月上旬「カムラン」湾ニ集合二月二十一日「ヂャバ」西部攻畧予定ニテ作戰準備中(以下略)
  7. ^ 〔 第三.経過 一.指揮官ノ作戰指導及行動(中略)[51] (ロ)二月三日 本日飛行偵察ニ依レバ午後零時五十五分「シンケプ」島西方ニ敵軽巡二隻駆逐艦一隻、午後二時十分「バンカ」海峡「ムントク」沖 敵巡洋艦一隻駆逐艦一隻、「シンガポール」商港内輸送船約五十八隻(内大型十隻、中型八隻、小型約四十隻)アリ且二日以来「バンカ」海峡ヲ経テ「新嘉坡」方面トノ商船及艦艇ノ往復頻繁ナリ 敵ハ「シンガポール」ニ兵力ヲ増強シツツアルカ又ハ引揚ヲ行ヒツツアル事確実ニシテ水上艦艇ハ航路ヨ要点ニ假泊之ガ間接護衛ニ任ジ居ルモノノ如シ 〕
  8. ^ (ハ)二月四日[53]航空基地ノ整備ノ都合上海軍航空隊ノ進出不能差當リL日ヲ二日繰下ゲラル 本日モ前日同様「バンカ」海峡北口ヲ北上中ノ敵大巡一隻 軽巡一隻 駆逐艦四隻 大型商船五隻ヲ認ム 尚南下中ノ商船ノ護衛兵力ノ僅少ナル点竝ニ飛行機ヨリ空船ノ報(一隻)アリシ点等ヨリ按ジ敵ハ「シンガポール」方面ニ兵力ヲ増強シ同時ニ同方面ヨリ非戰斗員竝ニ資源ノ一部ヲ搬出シ居ル算大ナリ 〕
  9. ^ (略)陸軍第16軍司令官(今村均陸軍中将)来艦。午前中作戦を練る。新嘉坡も後旬日に迫り、脱走せんと敵輸送船密集すとのことなり、陸海の空軍力にて連爆す。(以下略)[54]
  10. ^ ABDA艦隊におけるアメリカ海軍の先任将校は、グラスフォード少将になった[37]
  11. ^ 所属部隊は作戦時期によって若干変化し、この時は軽巡由良も馬来部隊主隊に所属している[73]
  12. ^ その後、戦艦は巡洋艦の誤認と判明した[77]
  13. ^ 第四航空戦隊司令官角田覚治少将を指揮官とする第三航空部隊(龍驤、汐風敷波)は馬來部隊と共に行動していた[80]

脚注

  1. ^ a b #略歴(乙)S1702経過概要 p.4(昭和17年2月経過概要)〔 四日|「ジャワ」沖海戰 鹿屋空(flo×27) 高雄空(flo×9)「カンゲアン」島南ヲ航行中ノ敵C×6 d×5ヲ發見攻撃ス C×2撃沈 C×2大破セシム 〕
  2. ^ a b (昭和17年2月5日、『高松宮親王日記』第4巻88頁より)○第一空襲部隊(〇七三〇=四-二〇四〇)本四日敵艦隊ニ対スル攻撃成果左ノ通リ。「ジャバ」型二隻、「デ・ロイテル」型一隻、「マーブルヘッド」型一隻及駆逐艦七隻(内二隻「トロンプ」型ト推定)ヨリ成ル敵艦隊ノ内、ジャバ型一隻轟沈(二五番二直撃) 「デ・ロイテル」型一隻大破(二五番二直撃、至近弾多数)(一時火災停止、一時間後、油ヲ流シツヽ航行) 「スマトラ」型一隻(六番一直撃、二五番二至近弾)(一時黒色褐色煙ヲ吐キタルガ鎮火) 「マーブルヘッド」型一隻(二五番一砲塔ニ直撃、至近弾一)(相当ナ損害ヲ与フ) 尚「マカッサル」ニ向ケ航行中ノ五〇〇〇「トン」輸送船ヲ第二航空戦隊艦爆撃破炎上セシム。
  3. ^ a b 戦史叢書80 1975, p. 186航空基地推進とジャワ東部航空撃滅戦開始
  4. ^ a b c #略歴(乙)S1702経過概要 p.3(昭和17年2月)〔 十五日|菲島西部海上兵力ノ大部及31fgノfb隊「バタアン」方面ノ作戰ニ協力/「バンカ」島、「バレンパン」上陸陸軍部隊先遣部隊ノT護衛ノ海軍部隊「ムントク」入泊、陸軍ヲ上陸セシム/鳥海ノfs「バンカ」島北方ニテ敵C×3 d×5發見 航空部隊之ヲ攻撃ス/「シンガポール」英軍降伏 〕
  5. ^ a b 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 110–112遁走したガスパル海峡の英蘭連合艦隊
  6. ^ a b 戦史叢書80 1975, pp. 187–188南部スマトラの攻略とジャワ西部航空撃滅戦開始
  7. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 55–56馬来方面作戦部隊
  8. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 56–57比島方面作戦部隊
  9. ^ ニミッツ 1962, pp. 31–36日本軍、蘭印に進撃す
  10. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 39オランダ領東インドへの日本軍の前進(1942年1月~2月)
  11. ^ a b 戦史叢書80 1975, pp. 141–142第一、第三南遣艦隊の新編
  12. ^ 戦史叢書80 1975, p. 54(挿図第一)主要海軍作戦部隊展開状況
  13. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 148–149蘭印作戦東方進出部隊
  14. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 161–163ABDAコマンドとANZAC戦域の創設
  15. ^ a b トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, pp. 13a-16パリクパパン沖の戦い
  16. ^ ニミッツ 1962, p. 32.
  17. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 13b.
  18. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 163–165米英の極東増強とABDAコマンドの作戦指導
  19. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 194a-196ジャワ島攻略作戦前の連合軍の作戦指導等
  20. ^ a b トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 35.
  21. ^ 戦史叢書80 1975, p. 194b.
  22. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 254a-256戦闘経過の検討
  23. ^ 戦史叢書95 1976, p. 232ジャワ攻略作戦/東正面航空基地推進
  24. ^ #略歴(乙)S1702経過概要 pp.3-4(昭和17年2月経過概要)〔 三日|KdB「マーシャル」進出取止メ「ジャバ」「チモール」作戰準備/11AF東「ジャバ」ヲ攻撃 撃墜炎上六二機/「アンボイナ」攻撃部隊(Y)占領 〕
  25. ^ a b ニミッツ 1962, p. 34.
  26. ^ a b c d 戦史叢書26 1969, p. 255.
  27. ^ The Java Sea Campaign, p.27-28
  28. ^ 高松宮日記4巻 1996, p. 85.
  29. ^ 戦史叢書26 1969, p. 248スラバヤ方面飛行場を爆砕
  30. ^ 戦史叢書26 1969, p. 249a-253ジャワ沖に適艦隊を撃滅
  31. ^ 基地航空隊の艦船攻撃、149-150ページ
  32. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、250ページ、基地航空隊の艦船攻撃、150ページ
  33. ^ 高松宮日記4巻 1996, p. 87.
  34. ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 251.
  35. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 170–173軽巡「マーブルヘッド」と誤認される
  36. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、255-256ページ、基地航空隊の艦船攻撃、150ページ
  37. ^ a b c ニミッツ 1962, p. 35.
  38. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  39. ^ #略歴(乙)S1702経過概要 p.4(昭和17年2月経過概要)〔 五日|「ケンダリー」「バリツクパパン」進出ノ航空部隊ノ東部「ジャワ」攻撃/fd×5「ラバウル」ヨリ「ポートモレスビー」攻撃 〕
  40. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 253a-254残存敵艦隊を逸す
  41. ^ 戦史叢書26 1969, p. 253b.
  42. ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 254b.
  43. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II, Dictionary of American Naval Fighting Ships Paul Jones III (DD-230)
  44. ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 256.
  45. ^ #戦藻録(1968) 77-78頁〔 二月五日 木曜日 晴 バリー島沖に於て聯合國艦隊を空襲爆破す。〕
  46. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 82(昭和17年)2月7日
  47. ^ #S1612七戦隊日誌(5) pp.28-29〔 三.友軍ノ情況(中略)(ハ)二月四日 第十一航空艦隊ハ「カンゲアン」島南方三十浬付近ニ於テ和蘭巡洋艦「ジャバ」型一隻及「デオイテル」一隻ヲ撃沈、和蘭巡洋艦「ジャバ」型一隻及米國大型巡洋艦一隻ヲ大破ス(「ジャバ」沖ノ海戰) 〕
  48. ^ #戦藻録(1968) 78-79頁〔 二月六日 金曜日 曇り 〕
  49. ^ 高松宮日記4巻 1996, p. 95○四日爆撃ノ「デロイテル」型ハ「ヒューストン」型ナルコト確実ナリ(写真引延判定)(八-一一三〇)
  50. ^ #S1612七戦隊日誌(5) pp.3-4
  51. ^ #S1612七戦隊日誌(5) pp.7-8
  52. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 292–293.
  53. ^ #S1612七戦隊日誌(5) p.8
  54. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 80(昭和17年)2月4日
  55. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室『南方進攻陸軍航空作戦』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1970年、511-512頁。 
  56. ^ #戦藻録(1968) 81-82頁〔 二月十五日 日曜日 晴 シンガポール陥落。〕
  57. ^ #S1612七戦隊日誌(5) pp.28-29〔 三.友軍ノ情況(中略)(ヌハ)二月十五日 午前二時二十分「バンカ」島(ムントク)上陸成功、午後「パレンバン」上陸成功 午後二時「シンガポール」ノ英軍降伏ヲ申出テ午後十時無條件降伏ス 〕
  58. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 317a-318連合軍の反撃ならず
  59. ^ #戦藻録(1968) 79-80頁〔 二月九日 月曜日 半晴 風相當なり マカッサル上陸成功。〕
  60. ^ #戦藻録(1968) 80頁〔 二月十一日 水曜日 晴 バンゼルマシン占領。〕、#略歴(乙)S1702経過概要 pp.2-3(昭和17年2月経過概要)〔 八日|「シンガポール」上陸成功 〕〔 九日|南洋方面部隊「ニューブリテン」島「ツルミ」(Y)「ガスマタ」島占領/「マカツサル」占領 方面陸戰隊「マロス」(Y)占領(一五日迄ニflo×20使用可能ノ如ク設營ノ豫定)〕〔 十日|「バンゼルマシン」占領 〕
  61. ^ a b 戦史叢書80 1975, p. 195.
  62. ^ a b c d トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 36.
  63. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 157–158.
  64. ^ 戦史叢書26 1969, p. 317b.
  65. ^ a b c 戦史叢書26 1969, p. 318.
  66. ^ 日本空母戦史 1977, p. 151.
  67. ^ 智将小沢治三郎 2017, p. 60.
  68. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 108–110.
  69. ^ a b c d 聯合艦隊作戦室 2008, p. 40.
  70. ^ #S1612七戦隊日誌(5) pp.5-6〔 第二.計画 一.本作戰開始直前ニ於ケル軍隊区分 〕
  71. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 21–24.
  72. ^ 日本空母戦史 1977, p. 152.
  73. ^ 戦史叢書26 1969, p. 294.
  74. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 298–303敵艦隊撃滅の好機を逸す
  75. ^ 高松宮日記4巻 1996, p. 112.
  76. ^ 戦史叢書26 1969, p. 295.
  77. ^ #S1612七戦隊日誌(5) p.23〔 午後五時第四航空戰隊司令官ヨリ「触接機ノ確認セル報告ニ依リ敵兵力ニ関スル情報中左ノ通改ム 巡洋艦七(「エメラルド」型三、「ダナエ」型二、「ホーキンス」型二)駆逐艦五、戰艦ナシ一六〇〇」ノ電アリ 〕
  78. ^ 戦史叢書26 1969, p. 301.
  79. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 303a-306航空部隊の戦果あがらず
  80. ^ 戦史叢書26 1969, p. 306.
  81. ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 307.
  82. ^ 戦史叢書95 1976, p. 233aジャワ攻略戦
  83. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, pp. 87–88(昭和17年)2月15日/英艦隊に遭遇す 大巡2、軽巡3、駆逐艦6 空軍力にて攻撃せしも命中せず、敵マラッカ方面に走る
  84. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, p. 111.
  85. ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 303b.
  86. ^ 日本空母戦史 1977, p. 155オランダ駆逐艦を撃沈(二月十七日)
  87. ^ 戦史叢書26 1969, p. 312十六日以後の航空部隊の作戦
  88. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. (昭和17年)2月17日/駆逐艦1、商船1撃沈 龍驤攻撃機.
  89. ^ #戦藻録(1968) 84-85頁〔 二月十九日 木曜日 晴 機動部隊のポートダーウヰン空襲。バリー島上陸成功。バリー島沖海戰。〕、#略歴(乙)S1702経過概要 pp.4-5(昭和17年2月経過概要)〔 十九日|「バリ」島南部攻略部隊ハ上陸成功/「バリ」島沖海戰 8dg「バリ」島ノ東「ロンボツク」海峡ニテC×1 d×1ト交戰撃退スルヤ更d×2ヲ發見交戰中更ニd×2ヲ發見交戰ス(正午ヨリ約五〇分間)敵C×1 d×2再發見シ之ト交戰ス KdB及鹿屋空、1fgノflo敵「ポートダーウイン」ヲ攻撃ス 〕
  90. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 192–193バリ島攻略とバリ島沖海戦
  91. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, pp. 38–44オランダ人提督ドールマンと艦隊の最期
  92. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, pp. 44–48パース、ヒューストン撃沈
  93. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 196a-197ジャワ島の攻略/攻略日程の延期/スラバヤ沖海戦/バタビア沖海戦/ジャワ島南方海面機動作戦/ジャワ島占領
  94. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 20–23ジャワ島へ戦闘機を運ぶ
  95. ^ 戦史叢書95 1976, p. 233bジャワ攻略戦


「ジャワ沖海戦」の続きの解説一覧

ジャワ沖海戦(マカッサル海峡海戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 05:57 UTC 版)

マーブルヘッド (軽巡洋艦)」の記事における「ジャワ沖海戦(マカッサル海峡海戦)」の解説

「マーブルヘッド」は、他のアメリカ海軍艦艇とともにオランダ海軍艦艇オーストラリア海軍艦艇合流しフィリピンから南へ下りながら、オランダ領東インド水域哨戒した。1942年1月23日バリクパパン沖に集結した日本攻略部隊輸送船団攻撃すべく、「マーブルヘッド」は軽巡洋艦ボイシ」および駆逐艦とともにバリクパパン急行した。これらの部隊は、1942年1月時点連合軍艦隊攻勢作戦使用できる精一杯勢力だった。しかし、運悪くボイシ」が座礁事故起こして後退し、「マーブルヘッド」もまたタービン不調戦闘支障が出るほどひどくなったので、バリクパパン攻撃参加できなくなってしまった。残った駆逐艦隊はバリクパパン沖で大戦果を挙げバリクパパン沖海戦)、これはこの時期連合軍艦隊海上作戦の中で唯一成功したものとなった6日後、「マーブルヘッド」は他の艦艇とともにケンダリ沖に集結する日本輸送船団攻撃すべくスラバヤ出撃した。しかし、背後にも別の日本輸送船団がいると分かり艦隊2月2日にブンダ・ロードで仮泊した後反転し2月4日にはバリ島北方マカッサル海峡南口入りつつあった。しかしその時艦隊日本索敵機に発見され、やがて9時49分に東方から鹿屋航空隊一式陸上攻撃機27機、高雄航空隊一式陸攻9機が飛来してきた。ジャワ沖海戦の始まりである。 この海戦で、「マーブルヘッド」は3度攻撃受けた。3機の攻撃機が「マーブルヘッド」に接近したが、対空砲火追い払った。その次の攻撃で7機の一式陸攻が「マーブルヘッド」の後方から攻撃し14発の250キロ爆弾投下したそのうちの2発は「マーブルヘッド」の前部艦尾命中。4発が至近弾となり、艦首損傷した前部命中した一弾は艦内爆発し火災発生させた。艦尾命中した一弾は操舵室破壊し、舵が取舵のまま動かなくなった。「マーブルヘッド」は直撃弾と至近弾で浸水して右舷側に約10度傾斜した火災11時までに鎮火した。この海戦での「マーブルヘッド」の損害戦死者15名、負傷者84であった。 「マーブルヘッド」の工作兵9度固定した舵を応急修理して、辛うじて右方向進めるようにした。12時55分、「マーブルヘッド」はチラチャップ(英語版)に向けて退避始めた。「マーブルヘッド」はスクリュー回転速度変化させることで針路保ち、チラチャップにたどり着いた。チラチャップでは浸水を防ぐ応急修理しかできなかった。「マーブルヘッド」は戦線から後退して14,000キロに及ぶ「船旅」をすることとなり、13日にはセイロン島向けて出航した2月21日、マーブルヘッドはトリンコマリー到着してさらなる修理行った3月2日、「マーブルヘッド」は南アフリカ向けて出航ダーバンポート・エリザベス寄港した後、3月24日サイモンズタウン到着。「マーブルヘッド」はここで大規模な修理受けた4月15日、「マーブルヘッド」はニューヨーク向けて出航し途中レシフェ寄港した後、5月4日ニューヨーク到着。ただちに、ブルックリン海軍工廠入渠した。

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