ジャワ更紗と模倣ジャワ更紗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 15:09 UTC 版)
「アフリカン・ワックス・プリント」の記事における「ジャワ更紗と模倣ジャワ更紗」の解説
インドネシアではインド更紗が王侯貴族の衣装として重要視され、ジャワ更紗と呼ばれる布が作られていた。ジャワ更紗はろうけつ染めの布で、ジャワ島、スマトラ島、マドゥラ島で作られた。インドネシアにはオランダ東インド会社とイギリス東インド会社が進出して争い、1816年以降はオランダ領東インドとなる。オランダ本国のハーレムコットン社がジャワ更紗の輸出独占権を得たのち、1834年にプレヴィネール&ウィルソン、1846年にP. F. ファン・フリシンゲン&Co(フリスコ(英語版))が大量生産を始めた。19世紀以降にヨーロッパ製の更紗がインドネシアに輸入されると、これが刺激となってジャワ更紗の生産も増え、オランダ製の更紗はジャワ更紗との競争に負けた。 オランダがパドリ戦争(1821年-1837年)に介入した際、ギニア湾岸のアフリカ人を東インド会社の兵士としてジャワ島へ派遣した。アフリカ人の兵士は戦後にジャワ更紗を持ってアフリカへ戻り、ジャワ更紗がゴールド・コーストで評判となった。ゴールド・コーストの宣教師はこの話をスコットランド商人のエベネゼル・ブラウン・フレミングに伝え、ブラウン・フレミングは1893年にオランダ製の更紗をアフリカへ輸出した。 オランダではジャワ更紗を機械的に製造する方法が研究され、模倣ジャワ更紗の量産に成功した。模倣ジャワ更紗は、ロウによる防染の工程を省きつつ、バティックの特徴をロールによって表現した。模倣ジャワ更紗は1867年にはイギリスやフランスの企業を通してゴールド・コーストにも輸出され、海岸から内陸に運ばれて各地で受け入れられていった。西アフリカで模倣ジャワ更紗が受け入れられた理由として、生地の軽さ、加工のしやすさ、色の明るさや絵柄の豊富さ、洗濯しやすさなどがあった。これはヨーロッパで更紗が人気を呼んだ理由と同じでもあった。加えて、藍染めの無地布があった点も理由にあげられる。藍染めは虫除けとして有効であり、西アフリカでは宗教的な意味もあった。
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