ガスパル海峡の海空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 19:13 UTC 版)
「ジャワ沖海戦」の記事における「ガスパル海峡の海空戦」の解説
ジャワ沖海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日-9日にシンガポールとスラウェシ島マカッサル、2月10日-11日にボルネオ島南カリマンタン州バンジャルマシンに上陸し、攻略作戦を順調にすすめた。ABDA艦隊はチラチャップに避退したばかりだったので、ボルネオ島やスラウェシ島に対する日本軍の攻勢に対処できなかった。 2月12日、ABDA海上部隊を指揮していたアメリカ海軍軍人のハート提督が本国に戻り、オランダ海軍軍人のコンラッド・ヘルフリック(英語版、オランダ語版)中将が残存部隊を指揮することになった。寄せ集めの多国籍艦隊を、引き続きカレル・ドールマン少将が海上指揮官として率いる。 2月13日、ジャワ島のバタビアにドールマン少将が率いるABDA打撃部隊が集結する。その兵力は、オランダ海軍の軽巡洋艦3隻(デ・ロイテル、ジャワ、トロンプ)、イギリス海軍の重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68) 、オーストラリア海軍の軽巡洋艦ホバート (HMAS Hobart) 、アメリカ海軍の駆逐艦6隻(ブルマ―、パーカー、ホイップル、アルデン、エドワーズ、エドサル)、オランダ海軍の駆逐艦4隻(バンケルト、ファンゲント、コルテノール(英語版)、ヴァンネス(英語版))であった。ドールマン少将は日本軍の西方部隊(馬来部隊)に対する警戒を余儀なくされており、目下の懸念はスマトラ島パレンバンに対する日本軍の攻勢であった。 2月14日早朝、ABDA艦隊はバンカ島にむけてバタビアを出撃したが、途中で駆逐艦ファンゲント(オランダ語版)が座礁沈没、乗組員収容のため駆逐艦バンケルト (Hr.Ms. Banckert) が残留した。日本側では、日本陸軍挺進連隊がパレンバン空挺作戦を実施しようとしており、掩護をかねて馬来部隊(指揮官小沢治三郎海軍中将/第一南遣艦隊司令長官)をシンガポール東方海面に配置した。馬来部隊は、重巡鳥海(小沢長官旗艦)と第七戦隊(司令官栗田健男少将)の重巡4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将、旗艦川内)、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)の軽空母龍驤などを主戦力としてマレー作戦に従事し、同方面作戦が順調に推移したのち蘭印作戦に協力していた。 2月15日午前9時以降、ガスパル海峡を通過中のABDA艦隊を日本軍偵察機が発見して「戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻の連合軍艦隊がガスパル海峡北上中」と報告した。マラヤ型戦艦 (Q.E.級戦艦) が報告され、小沢長官は日本軍輸送船団(第二護衛隊:練習巡洋艦香椎、海防艦占守、駆逐艦夕霧、天霧、駆潜艇、陸軍輸送船団)を退避させる。馬来部隊指揮官は「一、基地航空部隊は全力を挙げてこの敵を攻撃せよ/二、輸送船は北方に避退せよ/三、主力部隊(旗艦鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四航空戦隊)は基地航空部隊の攻撃に策応し敵を撃滅する」との方針を示した。輸送船団の護衛や掃蕩任務で別動中だった第三水雷戦隊各部隊(川内、由良、第11駆逐隊)なども、馬来部隊主隊との合流を命じられている。 水上部隊が艦隊決戦を挑む前に、ボルネオ島クチンやマレー半島クアンタンに展開していた日本海軍基地航空部隊と、四航戦の軽空母龍驤艦上機によるABDA艦隊への空襲を敢行することにした。無線を傍受していた第二艦隊旗艦(南方部隊旗艦)愛宕(司令長官近藤信竹中将/南方部隊旗艦)では、参謀達が「また幻の戦艦が小沢艦隊を走らせている」と冗談をかわした。ABDA艦隊に含まれていた「戦艦」は、英重巡エクセター (HMS Exeter, 68) の誤認であったという。 日本側の九七式艦上攻撃機や陸上攻撃機は諸事情により魚雷を搭載せず、爆弾のみを装備して出撃した。航空戦により、ABDA艦隊の2隻が損害を受ける。パース級軽巡洋艦 (Perth class light cruser) ホバート (HMAS Hobart) も若干の損傷をうけた。日本側の記録によれば、日本時間13時25分に第三航空部隊(龍驤)第一次攻撃隊(九七艦攻7機)がエクゼター型巡洋艦1隻を爆撃して炎上させ撃沈または大破と報じ、19時00分に龍驤第四次攻撃隊がレアンダー型軽巡洋艦1隻を爆撃して艦尾に数発の至近弾を得たと報告している。 決定的な被害こそ受けなかったものの、ABDA艦隊は日本軍輸送船団撃滅をあきらめて反転し、バタビアにもどった。日本側でも、戦況を分析していた永野修身軍令部総長が「基地航空部隊の爆弾はどうして当らないのか」と落胆したという。本作戦後、四航戦司令官(角田少将)は小沢中将に「敵艦隊を発見したとき、水上部隊は急追すべきではなかったか」質問した。戦後、小沢は「艦隊は輸送船団から過度に離れるべきではない。」「シンガポールからの脱出艦艇捕捉撃破も続けねばならなかった。」「まさか一回の空襲で敵艦隊が算を乱して逃げるとは思わなかった。」「後刻の偵察報告や写真判定で敵戦艦がいないとわかった。」と回想している。 2月17日、バンカ島守備隊を収容して撤退中の蘭駆逐艦ヴァンネス (Hr.Ms. Van Nes) と輸送船1隻は、空母龍驤艦上機と、基地航空隊の陸攻に襲われて2隻とも沈没した。
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