ガスパールとエイボンの書
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「イルゥルニュ城の巨像」の記事における「ガスパールとエイボンの書」の解説
ガスパール・ド・ノールは、作中ではエイボンとのつながりは全くないが、「エイボンの書」の翻訳者としてクトゥルフ神話に取り込まれるようになった。 「白蛆の襲来」は『エイボンの書』の第9章に当たり、とスミスは1933年9月16日付のラヴクラフト宛の書簡で、この作品はガスパール・デュ・ノールによるフランス語の手稿から英語に翻訳したものだと説明している。この設定について、リン・カーターが短編『エイボンの書の歴史と年表』で補足している。ラヴクラフトは1933年12月13日付のスミス宛書簡で『エイボンの書』フランス語版の成立を12世紀としているが、「イルゥルニュ城の巨像」で語られているのは13世紀後半の出来事であるためカーターはラヴクラフトの説を誤りと断じ、ガスパールによる翻訳の時期を13世紀と修正した。ガスパールが翻訳に際して用いた底本はスミスもラヴクラフトも詳らかにしていないが、カーターはギリシア語版であるとし、ナテールが持っていたのと同じものであろうと推定した。カーターが構想して没後に後継者が実現させた実書籍「エイボンの書」は、ガスパールのノルマンフランス語版を現代英語に翻訳したものという体裁をとっている。 ガスパールによる『エイボンの書』の翻訳についてラヴクラフトが論じた書簡の日付は「イルゥルニュ城の巨像」の発表よりも先行しているが、彼は1933年7月にスミスから原稿を送ってもらっており、実際に作品を読んだ上での考察である。1933年10月10日付のラヴクラフト宛書簡においてスミスはLe Livre d'Eibonなる題名を『エイボンの書』フランス語版に与え、これと類似するラテン語の題名Liber Ivonisがラヴクラフトの1933年12月13日付スミス宛書簡に見られる。しかしながら両者が同一であるかどうかについてラヴクラフトは言葉を濁し、いずれ学者たちが取り組むべき課題であると述べるにとどめた。
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