ガダルカナル島の戦い・ソロモン海戦
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「太平洋戦争」の記事における「ガダルカナル島の戦い・ソロモン海戦」の解説
詳細は「ガダルカナル島の戦い」を参照 ミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達したが、ミッドウェー海戦により日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は一時的に拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に海兵隊2万人を上陸させ、日本海軍が建設し完成間近であった飛行場を占領した。日本海軍は日本陸軍に対して同地奪回を懇願し、陸軍は地上部隊を派兵、これにより日本軍と米豪両軍の間で陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本海軍の攻撃で、アメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかったが、第二次ソロモン海戦で日本海軍は小型空母「龍驤」を失い、島を巡る戦況は泥沼化する。 10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍大型空母のうち「ホーネット」を撃沈、「エンタープライズ」を大破させた。先立って「サラトガ」が大破、「ワスプ」を日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における可稼動空母が皆無という危機的状況へ陥った。日本は「瑞鶴」以下5隻の空母を有し、ミッドウェー海戦後も空母の隻数では優位にあったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。 その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻(「比叡」「霧島」)を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破して補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。 1943年1月、日本海軍はソロモン諸島で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」を撃沈する戦果を上げたが、島の奪回は最早絶望的となり、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米豪両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘は両軍拮抗したまま続く。 1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(海軍甲事件)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃、日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線傍受と暗号解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。
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