海戦終了後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 14:51 UTC 版)
3月1日0325-0330、第12駆逐隊(白雲、叢雲)はソワートウェー島西方約5浬でオランダの駆逐艦エベェルツェン(エヴェルトセン)を発見、砲撃を行った。第12駆逐隊はエベェルツェンに命中弾を与えたが(翌朝の日本側調査では12.7㎝砲弾約10発命中)、前方に機雷原があるとの事前情報を得ており、0418に追撃を中止した。エベルツェンは煙幕を展開して逃走後に、セグク島で擱座した。乗組員は陸上に脱出した。午前中、叢雲は座礁したエベェルツェンを発見、臨検隊を送って調査を行うことにした。臨検隊が叢雲に戻ったのち、エヴェルツェンで爆発が発生した。3月2日にも爆発が起こり、沈没した。 第12駆逐隊がエベルツェンを撃破した頃、第11駆逐隊(初雪、吹雪)はバビ島南方を航行中の5000トン級給油船を砲撃して撃沈した。第七戦隊司令官栗田健男少将が率いる第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)と第19駆逐隊(浦波、磯波)はバタビア沖海戦の後、3月4日0100に南緯4度48分 東経107度34分 / 南緯4.800度 東経107.567度 / -4.800; 107.567地点で七戦隊第2小隊(三隈、最上)、第四航空戦隊(龍驤)と合流、5日1900にシンガポールへ帰投した。 同じ3月1日昼過ぎには、イギリスの重巡エクセターと駆逐艦2隻(ポープ、エンカウンター)も撃沈されており、ABDA連合艦隊の主力は失われた。スラバヤ沖海戦に参加した艦艇のうち脱出に成功したのは、バリ海峡の突破に成功したアメリカ海軍の駆逐艦4隻のみだった。その他、多くの小艦艇がオーストラリアやセイロン島を目指し脱出を試みたが、ジャワ島南方海面には南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官直率の南方部隊本隊(愛宕、高雄、嵐、野分)と第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将指揮下の南雲機動部隊が行動しており、脱出艦艇の捕捉攻撃をおこなっていた。アメリカの駆逐艦エドソールや給油艦ペコスのように、撃沈される艦もあった。アメリカ海軍の軽巡2隻は大破して本国に回航され、生き残った。またイギリスの軽巡2隻とオーストラリアの軽巡1隻を中核とした部隊があったが、戦闘に参加しないまま早期にスンダ海峡を突破して脱出した。3月1日以降日本軍は大本営発表を行い、スラバヤ沖海戦・バタビヤ沖海戦の戦果を発表した(実際の戦果、損失とは異なる)。 第16軍は3月1月、ジャワ島各所に上陸し、9日にはオランダ軍が降伏した。ジャワ島の要地バンドンも陥落し、残存連合軍も順次降伏、日本軍は蘭印を掌握した。本海戦に参加した各隊・各艦は3月4日以降、次作戦に備えてシンガポールやカムラン湾へ移動していった。なお、バンタムの西部に位置するメラクへの上陸部隊であるあきつ丸以下は敵艦隊との遭遇も無く無事に上陸を成功させた。この際、メラク島攻略部隊は、連合軍艦艦艇から脱出後に漂着していた水兵35名を捕虜とした。 その後、神州丸と龍野丸はサルベージされて修理された。神州丸は1945年(昭和20年)1月3日、台湾の高雄沖にて米機動部隊の空襲を受けて大破放棄され、漂流中にアメリカの潜水艦アスプロの雷撃で撃沈された。龍野丸は応急タンカーに改装され、海軍徴用船となって行動したが、1944年(昭和19年)1月15日にマニラから門司に向かう途中、ルソン海峡でアメリカの潜水艦スレッシャーが発射した魚雷2本が命中し、轟沈した。
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