欧米軍事視察とロシア皇太子接遇とは? わかりやすく解説

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欧米軍事視察とロシア皇太子接遇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 09:20 UTC 版)

有栖川宮威仁親王」の記事における「欧米軍事視察とロシア皇太子接遇」の解説

1889年明治22年2月11日大日本帝国憲法発布後、威仁親王・同妃慰子夫妻前田侯爵夫妻一行2月16日出発し米国経て欧州各国訪問した。慰子妃を同伴させるにあたり、兄が明治天皇対し宮内省経済負担かけないことを条件一つとして承諾得たため、渡航費用は全て慰子妃の実家である前田侯爵家が負担した香港上海経て1890年明治23年4月5日神戸港到着し京都滞在中の天皇・皇后拝謁をした後、4月10日帰京した同年2月貴族院皇族議員就任海軍大佐として巡洋艦高雄艦長在任中の1891年明治24年)、威仁親王ロシア帝国ニコライ皇太子(後のニコライ2世来日の際、外国留学経験買われ明治天皇名代として接待役を命じられた。このニコライ皇太子訪日日程中、滋賀県大津市において大津事件発生外国の王皇族日本官憲危害加えるという日本外交史始まって以来大事件となったが、威仁親王要請により明治天皇自らがニコライ見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことによりロシアとの関係悪化回避された。 日清戦争中は海軍大佐であったが、開戦時横須賀海兵団長、その後大本営附と、いずれも陸上勤務日々過ごした黄海海戦終了後1894年明治27年12月8日、ようやく連合艦隊旗艦松島艦長として艦隊勤務についたが、翌1895年明治28年1月熾仁親王薨去とその葬儀のために一時帰国余儀なくされた。その直後起きた威海衛の戦いは、威仁親王が艦へ戻った時には既に終結しており、結局親王実戦経験することができなかった。

※この「欧米軍事視察とロシア皇太子接遇」の解説は、「有栖川宮威仁親王」の解説の一部です。
「欧米軍事視察とロシア皇太子接遇」を含む「有栖川宮威仁親王」の記事については、「有栖川宮威仁親王」の概要を参照ください。

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