欧米軍事視察とロシア皇太子接遇
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「有栖川宮威仁親王」の記事における「欧米軍事視察とロシア皇太子接遇」の解説
1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布後、威仁親王・同妃慰子夫妻、前田侯爵夫妻ら一行は2月16日に出発し、米国を経て欧州各国を訪問した。慰子妃を同伴させるにあたり、兄が明治天皇に対し、宮内省に経済負担をかけないことを条件の一つとして承諾を得たため、渡航費用は全て慰子妃の実家である前田侯爵家が負担した。香港、上海を経て、1890年(明治23年)4月5日に神戸港に到着し、京都滞在中の天皇・皇后に拝謁をした後、4月10日に帰京した。同年2月、貴族院皇族議員に就任。 海軍大佐として巡洋艦「高雄」艦長在任中の1891年(明治24年)、威仁親王はロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として接待役を命じられた。このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津事件が発生。外国の王皇族に日本の官憲が危害を加えるという日本外交史始まって以来の大事件となったが、威仁親王の要請により明治天皇自らがニコライを見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことによりロシアとの関係悪化は回避された。 日清戦争中は海軍大佐であったが、開戦時は横須賀海兵団長、その後は大本営附と、いずれも陸上勤務の日々を過ごした。黄海海戦終了後の1894年(明治27年)12月8日、ようやく連合艦隊旗艦「松島」艦長として艦隊勤務についたが、翌1895年(明治28年)1月、熾仁親王の薨去とその葬儀のために一時帰国を余儀なくされた。その直後に起きた威海衛の戦いは、威仁親王が艦へ戻った時には既に終結しており、結局親王は実戦を経験することができなかった。
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