欧米諸国の野心と薩摩の思惑、清を頼る琉球とは? わかりやすく解説

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欧米諸国の野心と薩摩の思惑、清を頼る琉球

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「欧米諸国の野心と薩摩の思惑、清を頼る琉球」の解説

アヘン戦争以後琉球側にとって事態急速に悪化していく。まず欧米諸国の船が頻繁に来琉するようになった琉球側としては急増した欧米船の来航によって、欧米船に無償供与する食料品日用品負担急増して財政難一因となった。より深刻な問題欧米船が通商そしてキリスト教布教強く要求するといった、朝貢冊封という琉球支えてきた体制根幹揺るがすようになってきたのである。その上イギリスフランスそしてアメリカ合衆国琉球領土化する野心まで見せるようになるアヘン戦争終結後イギリス政府サマラン号を東南アジアから東アジア派遣して通商航海ルート探査測量を行なわせた。サマラン号は1843年末から翌1844年2月初めまで先島諸島測量活動強行し1845年にもまた先島諸島測量繰り返した上で那覇港にも2回、寄港している。ところでアヘン戦争によって開港した福州にはイギリス領事館が設けられた。その福州総領事から福州琉球館通し琉球当局宛に、英琉両国友好親善を願うとともに測量船活動理解便宜を図るよう要求する内容書簡手渡された。 福州イギリス総領事からの書簡と、サマラン号の先島諸島測量の報はほぼ同時に琉球王府届いた驚愕した王府はさっそく琉球王国全土通達出して異国船に対する厳重警戒命じた。しかし那覇港寄港したサマラン号の船長は、琉球来航一過性のものではないことを言明した琉球側はサマラン号の活動によって琉球がどれだけ困ったかを力説し活動中止懇願したが、イギリス側目的はまず通商関係樹立であり、琉球側の懇願聞き届けられことはなかった。 琉球として本格的に西欧諸国対峙せねばならない場面に立たされたのは、1844年4月28日フランス船アルクメーヌ号の来航であった艦長のデュプランは琉球側との交渉要求した。翌4月30日にデュプランとの交渉応じた琉球側は、フランス200年来清と交易をしており、今後琉球とも交易行いたいとの要求提示された。琉球側は資源乏し琉球交易を行うメリット無く要求には応じられない旨を回答するも、デュプランは納得しなかった。結局、デュプランは近々大兵力の船団が来琉することを予告した上で、その船団が来る準備琉球で行うとして、宣教師のフォルカードを残留させて出港した琉球当局至急、この事態薩摩側に報告して対応を協議するフランス大兵力を率いて再来予告した上にキリスト教宣教師まで琉球残している。事態江戸薩摩藩邸に急報され、さっそく幕府側と協議入ったその間薩摩側としても対応策検討した結局薩摩側としては、軍事的に勝利することが不可能であることは明白であるので交戦選択肢実現不可能である。そこで最善なのは交渉によって琉球との交易断念してもらうことであり、宗主国である清を動かす策を取るべきとした。しかしそれでも納得しない場合琉球表向きは清の属国であるので日本とは切り離した形で交易認め決断をすべきとの結論至った薩摩藩主の島津斉興はアルクメーヌ号来航経緯宣教師のフォルカードが琉球でのキリスト教布教許可強く求めているとの報告書幕府提出し藩主側近調所広郷老中首座阿部正弘会談させた。 薩摩側から了承得て琉球事態清に報告する1844年派遣され進貢使は国王尚育からのフランス船アルクメーヌ号の来航についての報告書持参していた。ただこの時点では事件報告書という色彩強く清に対して事態への介入依頼するものではなかった。これは清とフランス直接交渉行った結果、清がフランス側要求を飲むことになるのを恐れたからである。しかし報告受けた道光帝は、フランスのアルクメーヌ号の琉球派遣とその要求アヘン戦争後にフランスとの間に締結した黄埔条約違反していると判断した道光帝は清の冊封国である琉球は清の一部であると認識していて、条約に無い琉球開国等の要求条約違反であるとみなしたのである道光帝フランスに対して琉球二度と無理難題押し付けぬよう交渉するように命じた。 清側は当初対フランス交渉の経過楽観視していた。しかしその後事態は更に悪化する1846年4月30日フランス対抗するように今度イギリススターリング号が那覇港来航したスターリング号は琉球当局制止無視して宣教師医師ベッテルハイムとその家族琉球残留させた。そしてスターリング号の騒動最中フランスサビーヌ号が那覇港来航し近日中大兵力を載せた艦船が来琉する旨を予告する。その予告通り6月6日にセシーユ総督率いる2隻の艦船が来琉し、滞在中のサビーヌとともに運天港投錨する。セシーユ総督は3隻の艦隊威嚇加えながら、このまま手をこまぬいていけば、遠からぬうちにヨーロッパ列強いずれかの国が琉球侵略するであろう述べ運天港租借して琉球保護国化する意図ほのめかしつつ、琉球側との貿易交渉行った琉球側はセシーユの意図見抜き、何とか引き延ばし戦術取ってセシーユの要求かわした。なお琉球にはフォルカードに代わり宣教師のル・チュルジュが残った琉球のみならず薩摩藩ヨーロッパ列強琉球侵略可能性恐怖心抱いた。この事態急変報告受けて薩摩藩側はさっそく幕府協議した島津斉興改め調所広郷阿部正弘のもとへ遣わし事態説明、そして薩摩藩側が考えてきた対処方法について報告をした。この報告の肝は、フランス側からの要求拒み切れない場合幕藩体制外にあるとも言える琉球限定貿易認めてもらいたいとのことであった。ことの重大性鑑み阿部幕閣協議した結果薩摩藩提案通りフランスとの軍事的対決となるリスクを負うよりも、琉球王国自主判断ということにして、琉球限ってフランスとの貿易を行うことを認めた幕府結論将軍徳川家慶直々に薩摩藩島津斉興世子島津斉彬対し薩摩藩側の対応に任せることにするが、国体損なうことが無いようにせよと言い渡された。 しかし薩摩藩提案には裏があった。琉球舞台本格的にフランスとの貿易乗り出し利益得ようもくろんだのである幕府琉球での通商許可許可を得ると早速、薩摩藩琉球使者派遣してフランス強硬に通商求めた場合には薩摩藩幕府もそれを認めることを通告した。そしてフランスとの本格的な貿易開始する用意があり、準備のために薩摩側としては投資惜しまない旨を説明した薩摩側の説明琉球側は驚き貿易認めにしても最小限ものとするように求めた琉球側の反対理由貿易自由化によって琉球困窮するという点と、清の冊封国である琉球が清の許可得ずしてフランスとの本格的な貿易踏み切ることは出来ないということにあった19世紀半ば琉球には頻繁に外国船が来航しており、その対応に追われ疲弊していたのは事実であった。しかし薩摩藩実力者である調所広郷は、1847年、自らの鹿児島滞在中に琉球当局に対して改め琉球に対して本格的なフランスとの貿易開始指示した。この時の薩摩藩側の構想は、琉球側の抵抗主導者であった調所広郷死去によっていったんは挫折するものの、斉興の後継者島津斉彬によって更に本格的に追求されることになり、琉球側を苦しめることになる。 1846年琉球通常の進貢使とともに特命使として国王の舅である毛増光らを派遣した特命使の任務はもちろん琉球国王から清に対してイギリスフランス来航イギリス人フランス人琉球滞在報告対処の正式依頼であった報告受けた道光帝判断当初1844年の時と同じく条約締結したイギリスフランス両国とも清の属国である琉球に関して条約縛られるので貿易要求等は出来ないはずだという立場のままであった。清の当局者たちは皇帝の命を受けてイギリスフランス両国との交渉行ったが、アヘン戦争敗北喫した清に軍事的なカードを切れるはずはなく、結局清の介入では解決しきれなかった。清側による交渉結果1848年にはフランス人琉球から退去したものの、イギリス人ベッテルハイム琉球居座り続け琉球から清に対して介入要請繰り返される琉球使節は清側にベッテルハイム退去させるように求め書状繰り返し手渡し介入要請繰り返していた。清とイギリス側との交渉平行線のままで、イギリス琉球は清の領土外になるので清の命令及ばないとの考え方であり、交渉担った清の担当者イギリス側理屈理解して交渉進まないとの見解であった。しかし冊封国である琉球嘆願無視することも出来なかった。1851年には新皇帝の咸豊帝イギリス側との交渉継続しベッテルハイムらを琉球から退去させるよう命じている。しかしやはり交渉進まずそのような中で1852年4月石垣島到着した米国船ロバートバウン号に乗っていた中国人苦力帰国問題発生し、対応に苦慮した琉球側は特命使を清に派遣した。この特命使もやはりこれまで同様にベッテルハイム退去のために介入要請繰り返した

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