欧米諸国の野心と薩摩の思惑、清を頼る琉球
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「欧米諸国の野心と薩摩の思惑、清を頼る琉球」の解説
アヘン戦争以後、琉球側にとって事態は急速に悪化していく。まず欧米諸国の船が頻繁に来琉するようになった。琉球側としては急増した欧米船の来航によって、欧米船に無償供与する食料品、日用品の負担も急増して財政難の一因となった。より深刻な問題は欧米船が通商そしてキリスト教の布教を強く要求するといった、朝貢、冊封という琉球を支えてきた体制の根幹を揺るがすようになってきたのである。その上、イギリス、フランスそしてアメリカ合衆国は琉球を領土化する野心まで見せるようになる。 アヘン戦争終結後、イギリス政府はサマラン号を東南アジアから東アジアに派遣して、通商航海ルートの探査、測量を行なわせた。サマラン号は1843年末から翌1844年2月初めまで先島諸島で測量活動を強行し、1845年にもまた先島諸島の測量を繰り返した上で那覇港にも2回、寄港している。ところでアヘン戦争によって開港した福州にはイギリス領事館が設けられた。その福州の総領事から福州琉球館を通し琉球当局宛に、英琉両国の友好親善を願うとともに、測量船の活動に理解と便宜を図るよう要求する内容の書簡が手渡された。 福州イギリス総領事からの書簡と、サマラン号の先島諸島測量の報はほぼ同時に琉球王府に届いた。驚愕した王府はさっそく琉球王国全土に通達を出して異国船に対する厳重警戒を命じた。しかし那覇港に寄港したサマラン号の船長は、琉球来航が一過性のものではないことを言明した。琉球側はサマラン号の活動によって琉球がどれだけ困ったかを力説し、活動の中止を懇願したが、イギリス側の目的はまず通商関係の樹立であり、琉球側の懇願が聞き届けられることはなかった。 琉球として本格的に西欧諸国と対峙せねばならない場面に立たされたのは、1844年4月28日のフランス船アルクメーヌ号の来航であった。艦長のデュプランは琉球側との交渉を要求した。翌4月30日にデュプランとの交渉に応じた琉球側は、フランスは200年来清と交易をしており、今後は琉球とも交易を行いたいとの要求を提示された。琉球側は資源が乏しい琉球と交易を行うメリットは無く、要求には応じられない旨を回答するも、デュプランは納得しなかった。結局、デュプランは近々大兵力の船団が来琉することを予告した上で、その船団が来る準備を琉球で行うとして、宣教師のフォルカードを残留させて出港した。 琉球当局は至急、この事態を薩摩側に報告して対応を協議する。フランスは大兵力を率いての再来を予告した上にキリスト教の宣教師まで琉球に残している。事態は江戸の薩摩藩邸に急報され、さっそく幕府側と協議に入った。その間、薩摩側としても対応策を検討した。結局薩摩側としては、軍事的に勝利することが不可能であることは明白であるので交戦の選択肢は実現不可能である。そこで最善なのは交渉によって琉球との交易を断念してもらうことであり、宗主国である清を動かす策を取るべきとした。しかしそれでも納得しない場合、琉球は表向きは清の属国であるので日本とは切り離した形で交易を認める決断をすべきとの結論に至った。薩摩藩主の島津斉興はアルクメーヌ号来航の経緯と宣教師のフォルカードが琉球でのキリスト教布教の許可を強く求めているとの報告書を幕府に提出し、藩主側近の調所広郷を老中首座の阿部正弘と会談させた。 薩摩側からの了承を得て、琉球は事態を清にも報告する。1844年に派遣された進貢使は国王尚育からのフランス船アルクメーヌ号の来航についての報告書を持参していた。ただこの時点では事件の報告書という色彩が強く、清に対して事態への介入を依頼するものではなかった。これは清とフランスが直接交渉を行った結果、清がフランス側の要求を飲むことになるのを恐れたからである。しかし報告を受けた道光帝は、フランスのアルクメーヌ号の琉球派遣とその要求はアヘン戦争後にフランスとの間に締結した黄埔条約に違反していると判断した。道光帝は清の冊封国である琉球は清の一部であると認識していて、条約に無い琉球の開国等の要求は条約違反であるとみなしたのである。道光帝はフランスに対して琉球に二度と無理難題を押し付けぬよう交渉するように命じた。 清側は当初、対フランス交渉の経過を楽観視していた。しかしその後事態は更に悪化する。1846年4月30日、フランスに対抗するように今度はイギリス船スターリング号が那覇港に来航した。スターリング号は琉球当局の制止を無視して宣教師兼医師のベッテルハイムとその家族を琉球に残留させた。そしてスターリング号の騒動の最中、フランス船サビーヌ号が那覇港に来航し、近日中に大兵力を載せた艦船が来琉する旨を予告する。その予告通り、6月6日にセシーユ総督率いる2隻の艦船が来琉し、滞在中のサビーヌ号とともに運天港に投錨する。セシーユ総督は3隻の艦隊で威嚇を加えながら、このまま手をこまぬいていけば、遠からぬうちにヨーロッパ列強のいずれかの国が琉球を侵略するであろうと述べ、運天港を租借して琉球を保護国化する意図をほのめかしつつ、琉球側との貿易交渉を行った。琉球側はセシーユの意図を見抜き、何とか引き延ばし戦術を取ってセシーユの要求をかわした。なお琉球にはフォルカードに代わり宣教師のル・チュルジュが残った。 琉球側のみならず薩摩藩もヨーロッパ列強の琉球侵略の可能性に恐怖心を抱いた。この事態の急変の報告を受けて薩摩藩側はさっそく幕府と協議した。島津斉興は改めて調所広郷を阿部正弘のもとへ遣わし、事態の説明、そして薩摩藩側が考えてきた対処方法について報告をした。この報告の肝は、フランス側からの要求を拒み切れない場合、幕藩体制外にあるとも言える琉球限定で貿易を認めてもらいたいとのことであった。ことの重大性に鑑み阿部は幕閣と協議した結果、薩摩藩の提案通りフランスとの軍事的対決となるリスクを負うよりも、琉球王国の自主判断ということにして、琉球に限ってフランスとの貿易を行うことを認めた。幕府の結論は将軍徳川家慶直々に薩摩藩主島津斉興、世子の島津斉彬に対し、薩摩藩側の対応に任せることにするが、国体を損なうことが無いようにせよと言い渡された。 しかし薩摩藩の提案には裏があった。琉球を舞台に本格的にフランスとの貿易に乗り出し、利益を得ようともくろんだのである。幕府の琉球での通商許可の許可を得ると早速、薩摩藩は琉球に使者を派遣して、フランスが強硬に通商を求めた場合には薩摩藩も幕府もそれを認めることを通告した。そしてフランスとの本格的な貿易を開始する用意があり、準備のために薩摩側としては投資を惜しまない旨を説明した。薩摩側の説明に琉球側は驚き、貿易を認めるにしても最小限のものとするように求めた。琉球側の反対理由は貿易自由化によって琉球が困窮するという点と、清の冊封国である琉球が清の許可を得ずしてフランスとの本格的な貿易に踏み切ることは出来ないということにあった。19世紀半ば、琉球には頻繁に外国船が来航しており、その対応に追われ疲弊していたのは事実であった。しかし薩摩藩の実力者である調所広郷は、1847年、自らの鹿児島滞在中に琉球当局者に対して改めて琉球に対して本格的なフランスとの貿易開始を指示した。この時の薩摩藩側の構想は、琉球側の抵抗と主導者であった調所広郷の死去によっていったんは挫折するものの、斉興の後継者の島津斉彬によって更に本格的に追求されることになり、琉球側を苦しめることになる。 1846年、琉球は通常の進貢使とともに、特命使として国王の舅である毛増光らを派遣した。特命使の任務はもちろん琉球国王から清に対して、イギリス、フランス船来航とイギリス人、フランス人の琉球滞在の報告と対処の正式依頼であった。報告を受けた道光帝の判断は当初、1844年の時と同じく、条約を締結したイギリス、フランス両国とも清の属国である琉球に関しても条約に縛られるので貿易要求等は出来ないはずだという立場のままであった。清の当局者たちは皇帝の命を受けてイギリス、フランス両国との交渉を行ったが、アヘン戦争で敗北を喫した清に軍事的なカードを切れるはずはなく、結局清の介入では解決しきれなかった。清側による交渉の結果、1848年にはフランス人は琉球から退去したものの、イギリス人ベッテルハイムは琉球に居座り続け、琉球から清に対しての介入要請も繰り返される。 琉球使節は清側にベッテルハイムを退去させるように求める書状を繰り返し手渡し、介入要請を繰り返していた。清とイギリス側との交渉は平行線のままで、イギリスは琉球は清の領土外になるので清の命令権は及ばないとの考え方であり、交渉を担った清の担当者もイギリス側の理屈を理解して交渉は進まないとの見解であった。しかし冊封国である琉球の嘆願を無視することも出来なかった。1851年には新皇帝の咸豊帝がイギリス側との交渉を継続し、ベッテルハイムらを琉球から退去させるよう命じている。しかしやはり交渉は進まず、そのような中で1852年4月に石垣島に到着した、米国船ロバートバウン号に乗っていた中国人苦力の帰国問題が発生し、対応に苦慮した琉球側は特命使を清に派遣した。この特命使もやはりこれまでと同様にベッテルハイム退去のために介入要請を繰り返した。
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