レイテ沖海戦、沈没とは? わかりやすく解説

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レイテ沖海戦、沈没

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:52 UTC 版)

阿武隈 (軽巡洋艦)」の記事における「レイテ沖海戦、沈没」の解説

1944年10月第5艦隊遊撃部隊21戦隊1水戦)として、スリガオ海峡より西村艦隊の後に続いて突入した10月25日スリガオ海峡海戦において敵魚雷艇群の攻撃を受け、魚雷1本が艦首第一砲塔の下に命中第一砲塔員および弾薬庫発生した一酸化炭素電信室に漏入し電信員、暗号員の大部分を含む戦死者五十余名出し速力低下した旗艦駆逐艦変更になり、第一水戦司令官ならびに幕僚移乗した。阿武隈その後撤退命令を受け駆逐艦潮を伴い戦線離脱した夜明けとともにアメリカ軍攻撃機雷撃機による空襲受けた空襲損傷を受け待避していた重巡洋艦最上集中しその後最上沈没した阿武隈P-38戦闘機による機銃掃射などの攻撃を受けるが、対空機銃により応戦。この時の空襲は何とか乗り切ることに成功した。 翌26日ミンダナオ島ダピタン応急修理行い駆逐艦とともにコロンへ向け出航した。その途上午前十時ごろにB-24爆撃機30機の空襲受けた。まず対空砲火届かない高度3,000メートル以上からの高空から爆撃を受け、その後700メートルから低空爆撃受けた阿武隈はこの攻撃で250kg爆弾により直撃弾3発、至近弾4発を受け上甲板人員全滅し艦橋人員大部分負傷または戦死機関停止し火災発生したアメリカ軍機はこれをみて攻撃目標を潮に変更した阿武隈停止後も必死応急処置によりなんとか浮かんでいたが発射管魚雷予備魚雷との証言もあり)が火災により誘爆、艦体に亀裂生じ重油流出した。これによって応急処置諦め総員退去命令下され生存者艦首より退艦。阿武隈3時間後に艦首立てた状態でネグロス島沖に沈んだ阿武隈戦死者217名で生存者281名(内負傷者111名)だった 。阿武隈生存者はなんとかアメリカ軍機の攻撃回避した潮に救助され全員マニラ送り届けられた。 沈没位置北緯0909東経12154分 / 北緯9.150度 東経121.900度 / 9.150; 121.900 ダピタン20037地点付近 1944年10月26日 午後0:42

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レイテ沖海戦、沈没

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 23:09 UTC 版)

最上 (重巡洋艦)」の記事における「レイテ沖海戦、沈没」の解説

10月中旬以降捷号作戦は、第一遊撃部隊第三部隊西村祥治中将)に戦艦山城扶桑駆逐艦4隻(満潮山雲朝雲時雨と共に参加した1944年昭和19年10月22日午後3時第三部隊ブルネイ出撃し、速力18ノットスリガオ海峡向かった24日午前2時と午前7時未明最上は計3機の水上偵察機射出した。午前10時前、第三部隊は米機動部隊艦載機26機の空襲を受け、最上機銃掃射戦死傷者8名を出した最上偵の残り2機を発進させ、ミンドロ島に向かわせた。偵察機正午レイテ湾戦艦4、巡洋艦2、駆逐艦2、輸送船80南部飛行艇母艦1、飛行艇15、その南方魚雷艇14駆逐艦4隻と報告しミンドロ島基地帰投した。 同日午後7時最上湾口魚雷艇掃討するため満潮山雲朝雲と共に艦隊先行午後11時過ぎ交戦し魚雷艇撃退した。この時山城または扶桑から誤射され、戦死者3名を出した25日未明艦隊は米魚雷艇等から雷撃を受け、午前3時半までに扶桑満潮山雲沈没朝雲大破した山城最上時雨前進続けたが、アメリカ軍ジェシー・B・オルデンドルフ提督戦艦巡洋艦駆逐艦レーダー射撃迎撃し、山城沈没時雨撤退した最上魚雷回避したが、直撃弾で3番主砲破壊され、艦中央部大火災となった3時45分最上前方発砲閃光向けて魚雷4本を発射し煙幕を張って3時57分に反転南下退却始めた炎上する艦で藤間艦長は、レイテ島座礁して乗組員陸戦隊とする方針告げた中野信航海長は「われわれは、海峡入口まで来ていると思います。われわれは船乗りです。艦を捨てることはできません」と北上上申したが、藤間艦長は「そんなこと言っても君、たいまつ背負って炎上した状態で)突入は無理だ」と諭した4時2分、艦橋直撃弾を受け、藤間艦長下司令部が壊滅した砲術長の荒井義一少佐指揮を執ったが、機関故障して速力低下し魚雷弾丸誘爆起こした志摩清英中将指揮する第二遊撃部隊スリガオ海峡到着したが、旗艦重巡那智最上衝突した後述)。志摩中将第二遊撃部隊反転決断し駆逐艦曙を最上の護衛就けた最上の通信装置壊れていたため、曙が通信代行した日の出後、両艦は断続的に空襲受けた蒸気噴出して機関科員は退去し8時30分頃に航行不能消火の手立てなくなった。9時以降空襲爆弾2発が命中米軍魚雷2本も命中報告)、重油タンク破壊され前部炎上10時30分総員退去決まった。曙は危険を冒して最上の左舷後部接舷乗組員移乗させ、午後0時30分に魚雷1本を発射午後1時7分、最上左舷から転覆して沈没した最上の戦死者190名、負傷者125名に達した10月26日、曙はマニラ到着し最上生存者同地上陸したその後最上乗員のうち595名がフィリピン地上戦投入された(マニラの戦い)。 11月21日第七戦隊解隊された。12月20日最上帝国軍艦籍から除籍された。 2019年9月9日海底最上の残骸調査船ペトレルにより同年5月8日スリガオ海峡海底1450メートル地点にて発見されたことが発表された。

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