レイテ沖海戦、沈没
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「阿武隈 (軽巡洋艦)」の記事における「レイテ沖海戦、沈没」の解説
1944年10月、第5艦隊の遊撃部隊(21戦隊1水戦)として、スリガオ海峡より西村艦隊の後に続いて突入した。10月25日、スリガオ海峡海戦において敵魚雷艇群の攻撃を受け、魚雷1本が艦首第一砲塔の下に命中、第一砲塔員および弾薬庫に発生した一酸化炭素が電信室に漏入し電信員、暗号員の大部分を含む戦死者五十余名を出し、速力は低下した。旗艦は駆逐艦霞に変更になり、第一水戦司令官ならびに幕僚は霞に移乗した。阿武隈はその後撤退命令を受け駆逐艦潮を伴い戦線を離脱した。 夜明けとともにアメリカ軍の攻撃機、雷撃機による空襲を受けた。空襲は損傷を受け待避していた重巡洋艦最上に集中し、その後最上は沈没した。阿武隈もP-38戦闘機による機銃掃射などの攻撃を受けるが、対空機銃により応戦。この時の空襲は何とか乗り切ることに成功した。 翌26日、ミンダナオ島ダピタンで応急修理を行い、駆逐艦潮とともにコロンへ向け出航した。その途上、午前十時ごろにB-24爆撃機30機の空襲を受けた。まず対空砲火の届かない高度3,000メートル以上からの高空から爆撃を受け、その後700メートルから低空爆撃を受けた。阿武隈はこの攻撃で250kg爆弾により直撃弾3発、至近弾4発を受け上甲板の人員は全滅し、艦橋の人員も大部分が負傷または戦死。機関も停止し火災も発生した。アメリカ軍機はこれをみて攻撃目標を潮に変更した。 阿武隈は停止後も必死の応急処置によりなんとか浮かんでいたが発射管の魚雷(予備魚雷との証言もあり)が火災により誘爆、艦体に亀裂が生じ重油が流出した。これによって応急処置は諦め、総員退去命令が下され生存者は艦首より退艦。阿武隈は3時間後に艦首を立てた状態でネグロス島沖に沈んだ。 阿武隈の戦死者は217名で生存者は281名(内負傷者は111名)だった 。阿武隈の生存者はなんとかアメリカ軍機の攻撃を回避した潮に救助され、全員マニラへ送り届けられた。 沈没位置:北緯09度09分 東経121度54分 / 北緯9.150度 東経121.900度 / 9.150; 121.900 ダピタン200度37浬地点付近 1944年10月26日 午後0:42
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レイテ沖海戦、沈没
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「最上 (重巡洋艦)」の記事における「レイテ沖海戦、沈没」の解説
10月中旬以降の捷号作戦は、第一遊撃部隊第三部隊(西村祥治中将)に戦艦山城・扶桑、駆逐艦4隻(満潮・山雲・朝雲・時雨)と共に参加した。1944年(昭和19年)10月22日午後3時、第三部隊はブルネイを出撃し、速力18ノットでスリガオ海峡へ向かった。 24日午前2時と午前7時未明、最上は計3機の水上偵察機を射出した。午前10時前、第三部隊は米機動部隊艦載機約26機の空襲を受け、最上は機銃掃射で戦死傷者8名を出した。最上は水偵の残り2機を発進させ、ミンドロ島に向かわせた。偵察機は正午にレイテ湾で戦艦4、巡洋艦2、駆逐艦2、輸送船80、南部に飛行艇母艦1、飛行艇15、その南方に魚雷艇14、駆逐艦4隻と報告し、ミンドロ島の基地に帰投した。 同日午後7時、最上は湾口の魚雷艇を掃討するため満潮、山雲、朝雲と共に艦隊を先行。午後11時過ぎに交戦し、魚雷艇を撃退した。この時山城または扶桑から誤射され、戦死者3名を出した。25日未明、艦隊は米魚雷艇等から雷撃を受け、午前3時半までに扶桑と満潮、山雲が沈没、朝雲が大破した。山城と最上、時雨が前進を続けたが、アメリカ軍はジェシー・B・オルデンドルフ提督の戦艦・巡洋艦・駆逐艦がレーダー射撃で迎撃し、山城は沈没、時雨も撤退した。最上は魚雷は回避したが、直撃弾で3番主砲を破壊され、艦中央部は大火災となった。 3時45分、最上は前方の発砲閃光に向けて魚雷4本を発射し、煙幕を張って3時57分に反転、南下退却を始めた。炎上する艦で藤間良艦長は、レイテ島に座礁して乗組員を陸戦隊とする方針を告げた。中野信行航海長は「われわれは、海峡に入口まで来ていると思います。われわれは船乗りです。艦を捨てることはできません」と北上を上申したが、藤間艦長は「そんなこと言っても君、たいまつを背負って(炎上した状態で)突入は無理だ」と諭した。4時2分、艦橋に直撃弾を受け、藤間艦長以下司令部が壊滅した。砲術長の荒井義一郎少佐が指揮を執ったが、機関が故障して速力が低下し、魚雷や弾丸が誘爆を起こした。 志摩清英中将の指揮する第二遊撃部隊がスリガオ海峡に到着したが、旗艦の重巡那智が最上と衝突した(後述)。志摩中将は第二遊撃部隊の反転を決断し、駆逐艦曙を最上の護衛に就けた。最上の通信装置は壊れていたため、曙が通信を代行した。日の出後、両艦は断続的に空襲を受けた。蒸気が噴出して機関科員は退去し、8時30分頃に航行不能、消火の手立てもなくなった。9時以降の空襲で爆弾2発が命中(米軍は魚雷2本も命中と報告)、重油タンクが破壊され前部が炎上。10時30分、総員退去が決まった。曙は危険を冒して最上の左舷後部に接舷、乗組員を移乗させ、午後0時30分に魚雷1本を発射。午後1時7分、最上は左舷から転覆して沈没した。 最上の戦死者は190名、負傷者は125名に達した。10月26日、曙はマニラに到着し、最上生存者は同地に上陸した。その後、最上乗員のうち595名がフィリピンの地上戦に投入された(マニラの戦い)。 11月21日、第七戦隊は解隊された。12月20日、最上は帝国軍艦籍から除籍された。 2019年9月9日、海底の最上の残骸が調査船ペトレルにより同年5月8日にスリガオ海峡の海底1450メートル地点にて発見されたことが発表された。
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