泊地の運用略史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/01 02:11 UTC 版)
リンガ泊地がいつごろから使用され始めたのかは定かではないが、1943年ごろからこの海域を担当していた第十六戦隊が訓練や各種作業に使用していた。同年9月22日に第十六戦隊司令部から発信されたリンガ泊地に関する電文では、リンガ泊地は「秘密艦隊泊地トシテ最適」であり、泊地近辺を防衛することは「是非共必要」なことで、これは同時に「間接ニ昭南ノ防衛トナル」とある(昭南はシンガポールのこと)。 リンガ泊地がにわかに脚光を浴びだしたのは1944年に入ってからである。2月17日のトラック島空襲前にトラック諸島を脱出した連合艦隊の有力艦艇は、パラオを一時的な根拠地としたあと、続々とリンガ泊地に集結していった。この頃、すでに日本本土の燃料事情は、燃料を輸送するタンカーが潜水艦によって撃沈されるなど徐々に逼塞しつつあり、日本に戻ったところで作戦用はおろか訓練用の燃料すら際どい状況だった。いわば、艦隊が燃料を求めに、リンガ泊地に移動してきたような格好となったのである。また、一時的に根拠地に使われたパラオは、3月末の大空襲で基地機能が壊滅していた。 2月中には戦艦長門、扶桑、空母翔鶴、瑞鶴、第四戦隊。第五戦隊、第七戦隊の重巡洋艦などが集結。3月に入ると戦艦金剛、榛名、空母大鳳が、5月には戦艦大和、重巡洋艦摩耶がそれぞれリンガ泊地に入り、それぞれ各種訓練や船団護衛、作戦に従事した。6月19日のマリアナ沖海戦を前にタウィタウィに進出した際には、おおむね上記の顔ぶれで進出した。 マリアナ沖海戦で敗れ、一旦呉に帰投した海戦参加の多くの艦艇は、それぞれ修理と整備を終えた後、各々リンガ泊地に向かった。戦艦武蔵、大和、長門、金剛などは沖縄に対する輸送作戦を行った後リンガ泊地に到着し、榛名はカムラン湾に寄港の後到着した。戦艦山城、扶桑も10月に入って到着。リンガ泊地の諸艦艇は、レイテ沖海戦のためにブルネイに進出する10月18日まで、再び訓練と整備に明け暮れた。福田幸弘は「リンガでの訓練約三か月は、近くのパレンバンの石油に恵まれていたため、一年分に相当する程のものであった」と回想している。 連合艦隊はマリアナ沖海戦に続きレイテ沖海戦でも敗れ、武蔵、扶桑などはついに帰らず、大和や長門など一部の残存艦は日本に帰投していった。これらと入れ替わるようにリンガ泊地に入ってきたのが、戦艦伊勢、日向、軽巡洋艦大淀など、レイテ沖海戦では小沢艦隊に属していたものや、レイテ沖海戦後に日本に戻らなかったものを中心とする艦艇である。この頃になると、人口が少なかったはずの近隣島嶼にスパイの影がちらつき始めた。この方面に残った艦艇はフィリピンの戦いに備えてリンガ泊地からカムラン湾に進出し、礼号作戦などを繰り広げた。 この時期、成都から作戦を行っていたB-29はしばしばシンガポールを空襲し、1945年に入るとアメリカ第38任務部隊が南シナ海に侵入して各地を空襲したが、いずれにおいてもリンガ泊地は無事だった。2月の北号作戦で伊勢、日向、大淀などが去っていくと、リンガ泊地を大艦隊の泊地として利用する機会は二度と訪れなかった。それでもリンガ泊地は、シンガポールやスマトラ島、ジャワ島などと同様、8月15日の終戦まで日本の勢力圏内にあった。
※この「泊地の運用略史」の解説は、「リンガ泊地」の解説の一部です。
「泊地の運用略史」を含む「リンガ泊地」の記事については、「リンガ泊地」の概要を参照ください。
- 泊地の運用略史のページへのリンク