真珠湾攻撃 - ポストン戦争強制収容センター
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「ワカコ・ヤマウチ」の記事における「真珠湾攻撃 - ポストン戦争強制収容センター」の解説
日本軍が真珠湾を攻撃した1941年12月7日、ヤマウチは17歳(高校3年生)であった。翌日、歴史の教師が「ジャップ」による真珠湾攻撃について話したとき、米国人にとって「ジャップ」であった「自分たちが爆撃したかのように思わされ」、日本人の子供たちはみな学校に行かなくなった。1942年2月19日、ルーズベルト大統領が発令した大統領令9066号により、日系人の強制立ち退き(強制収容)が始まり、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州に住む約12万人の日系人が内陸部の10の収容所に送られた。ヤマウチは家族とともにアリゾナ州のポストン戦争強制収容センターに収容され、ここで同じ日系アメリカ人作家のヒサエ・ヤマモトに再会した。ヤマモトは当時20歳で、すでに『羅府新報』や『加州毎日』の英語版に投稿していたが、この数年前に、英語の授業でヤマウチと一緒であった弟に「すごく優秀な子」としてヤマウチを紹介され、下宿屋をしていた母ハマとも顔見知りであった。なお、ヤマモトの弟は、コロラド州のサトウキビ畑で強制労働に就かされた後、第442連隊戦闘団に志願し、イタリアで19歳で戦死した。ポストン収容所でヤマウチとヤマモトは『ポストン・クロニクル』誌を刊行した。ヤマモトは主に編集、ヤマウチは美術を担当した。二人はヤマモトが2011年に89歳で亡くなるまで文学と美術への関心を共有し、互いに励まし合いながら親交を深めた。
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