「帝国政府ノ対米通牒覚書」と宣戦布告
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「真珠湾攻撃」の記事における「「帝国政府ノ対米通牒覚書」と宣戦布告」の解説
日露戦争後、「開戦に関する条約」を日米両国とも締結し批准しており、真珠湾攻撃の時点では、明瞭かつ事前に宣戦布告を相手国に行う義務があった。国際法上は宣戦布告の義務はあると考えられていたものの、日露戦争が宣戦布告なしに始まったため、あらためて問題となり、日露戦争後に初めて成文化されたものである。 1941年11月5日の御前会議において、対米交渉を継続し、希望する結果が得られない場合は12月初めに開戦することが決定した。外務省でその際の外交手続きについて検討が行われ、開戦宣言なしでの攻撃開始や最後通牒を条件付きあるいは期限付きで出す形など、およそあらゆる形が検討された。その結果との関係性は不明だが、11月27日の連絡会議では、御前会議での開戦決定を経て宣戦布告なしで攻撃開始し、その翌日に宣戦布告の閣議決定→枢密院への諮詢→政府声明(宣戦布告)といった手順で宣戦布告を行い、内閣告示で交戦状態に入った時期を明示する方針が決まった。 東郷茂徳外務大臣は対米宣戦布告をしなくてもよいと考えていた上に、開戦とほぼ同時にこのような大規模攻撃をかけるとは知らず、また11月30日開戦と思い込んでいて、交渉を続けても妥結には時間的にも余裕がないと考えていた。国際法上自衛戦争であるならば宣戦布告は不要でもあった(ただし、この自衛戦争であるとの東郷の主張は、拡大解釈されていて、本来想定されていた範囲からかけ離れたものになっていることに注意。)東郷が後に東京裁判を控えた尋問で語ったところでは、交渉継続は意味がないし間に合わないと考えていたにもかかわらず、海軍側から交渉を続けてくれとの要請が出されるので、途中で話がおかしいと気づき、確かめたところ、開戦は12月8日で、そのときまでは交渉を続けておいて欲しいということであった。ここで、交渉を続けるのであれば、その交渉打切りを通告をするか・しないかといった問題が、あらためて浮上してきたと考えられる。 12月1日の御前会議で外交打切りとして対米最後通牒の案文を東郷に一任、打電・通告の日時は東郷と統帥部で相談して決めることになった。東郷が東京裁判で語ったところによれば、このとき、永野軍令部長と伊藤軍令部次長は外交交渉を打ち切らず奇襲することを要請したという。12月6日連絡会議で最後通牒を現地午後2時に渡すことに決まる。
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