「帝国政府ノ対米通牒覚書」について
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「真珠湾攻撃」の記事における「「帝国政府ノ対米通牒覚書」について」の解説
しかし、この「帝国政府ノ対米通牒覚書」は、覚書本文の最終部分(第7項3)が下記のとおり書かれていた。 仍(よっ)テ帝国政府ハ、茲(ここ)ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニスルヲ得ズト認ムル外ナキ旨ヲ、合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ。 これは字義としては、当時行われていた野村駐米大使とこの交渉のために派遣されてきた来栖特命全権大使による特別交渉が妥結不可能と判断した旨の通告であって、解釈しても、せいぜい特別交渉の打ち切りかその予定であることを暗示したものではあるが、米国に対する宣戦布告ではない。日本が実際にアメリカに手交した「帝国政府ノ対米通牒覚書」は宣戦布告ではなかったのである。また、ときに言われるような国交断絶の通知でもない。東郷は東京裁判では、はっきりとした宣戦布告でなかったことについては、軍部との妥協でこのような文面になったとしている。 アメリカは当時すでにパープル暗号の解読に成功しており(解読した情報は「マジック」と呼ばれた)、文書が手交される前に内容を知悉(ちしつ)していた。ハルの回想には、12月7日の午前中に全14部の傍受電報を受け取ったとあり、「日本の回答は無礼きわまるものであった」とあり、そして 「この通告は宣戦の布告はしていなかった。また外交関係を断絶するともいっていなかった。日本はこのような予備行為なしに攻撃してきたのである」 とある。そもそもの日本側の最初の発表は真珠湾攻撃後の「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」であって、あくまでも表向きは、開戦は偶発的に戦闘に入った結果と主張するためのものであるように見える。実際に、天皇の開戦大権の発動による緊急の開戦とはせずに、その後、枢密院への諮問・議会での議決などの手順を踏んで正式に開戦のための手続きに入っている。真珠湾攻撃後の日本時間昭和16年12月8日午前11時45分に渙発された「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」は国内向けとする説もあるが、正午を期してラジオ放送を行っており、当初の趣旨からすれば、これが全世界に向けた英米との開戦宣言となる筈である。 ウィキソースに米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書の原文があります。
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