「帝国政府ノ対米通牒覚書」の遅れを巡る問題
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「真珠湾攻撃」の記事における「「帝国政府ノ対米通牒覚書」の遅れを巡る問題」の解説
「帝国政府ノ対米通牒覚書」は現地時間1941年12月7日午後2時20分(日本時間昭和16年12月8日午前4時20分)に特命全権大使の来栖三郎と大使の野村吉三郎より、国務省において国務長官のコーデル・ハルに手交された。これは指定時間から1時間20分遅れで、マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、真珠湾攻撃の1時間後だった。 ハルは通告が遅れたことについて、「日本政府が午後一時に私に合うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私に手渡すつもりであったのだ。(中略)野村は、この指定時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかでき上がっていないにしても、あとはできしだい持ってくるように大使館員にまかせて、正に一時に会いに来るべきであった」としている。 ルーズベルトは、12月6日の午後9時半過ぎに、パープル暗号が解読された日本側から手交される前の「帝国政府ノ対米通牒覚書」の13部目までを読み、「これは戦争ということだね(This means war.)」とつぶやいたという(しかし、「帝国政府ノ対米通牒覚書」は宣戦布告ではなかったので、ルーズベルトがこの時点ではまだ読んでいなかった最終部分の14部目にも、すでに読み終わっていた1~13部目にも、どこにも日本が宣戦布告をするとは書かれていなかったことに注意)。 ルーズベルトに「帝国政府ノ対米通牒覚書」を手渡したL.R.シュルツ海軍中佐の回想によると、この時のルーズベルトと側近のハリー・ホプキンズの会話は以下のように続く。 ホプキンズ:「われわれが最初の攻撃を加えていかなる種類の奇襲をも阻止することができないのは残念なことだ」ルーズベルト:「いや、われわれにはそれができないんだよ。われわれは民主主義国で平和愛好国民だ。しかし、われわれにはいい記録がある」 コタバル上陸により始まったマレー作戦は無通告で開始されているが、イギリスはウィンストン・チャーチルが皮肉を言った程度で抗議すらしていない。 東郷から駐米大使の野村吉三郎宛に、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられていた。この中では、「対米覚書」が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。 「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。それまでのものはこれまでの交渉経過を縷々述べたもので結論が何か予想できるものなく、肝心の14分割目のみが異常に遅れて午前3時の時点でも到着しておらず、電信課員は上司の指示で帰宅した。もともと大使館と電信会社との間で、緊急の電信についてはvery urgentとの用語を決め、その用語の付された電文は時間を問わずに深夜であっても電話連絡して直ちに配達することになっていたが、東京の外務省本省の指示でいったん緊急はKINQU、大至急はDAIQU、至急はSHIQU等の符牒を設け、KINQUとDAIQUはかつてのvery urgentと同様に扱うことにさせられていた。13分割目までこれらの扱いになっていなかった。さらに、急ぐ筈の14分割目は符牒ではなく英文のvery importantになっており、そのため、米側の電信会社で電報は翌朝の通常の配達時間に配達される扱いとなったと考えられ、結局、14分割目は7日7時前後に到着したと見られる。さらに訂正を指示する電文2通が合わせて届いていた。また、井口武夫の研究によれば、通告の手交時間を指示する九〇七号の電報は東京の本省の指示で変えた筈の符牒のKINQUではなく元の英文の形のvery urgentとして送るよう指示されており、それがさらに東京からの実際の送信では"urgent,very important"に変わった形で、この7日午前中に届いた。「九〇四号は覚書の作成に現地人タイピストを利用しないようにとの注意、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。また、暗号の解読機は本省の指示により1台を残して破壊されていた。なお、14分割目の不自然さに関しては、戦後に入ってこの問題を指摘する声が上がっている。 当時大使館の一等書記官だった結城司郎は、朝に大使館に出勤した電信課員は午前9時半から10時頃までに全員集まり解読作業を開始し、昼の12時30分頃に問題の14通目の解読を終了したと言う。(暗号解読をした堀内正名の自筆記録には、14分割目の解読は正午くらい終わっていたので間に合うだろうと書かれているとされる。また、堀内は文面内容からは開戦通告とは認識しなかったとしている。)解読が終わったものから順に一等書記官の奥村勝蔵により修正・清書されたともされる。ただし、訂正指示の電文が2通(外務省で紛失している電文が2通あり、それがこの訂正電文であろうと柴山哲也や大野哲弥等多くの研究者は考えている)届いていた他、さらに単なる人事異動のあった職員への慰労文までが大野哲弥の研究によればDAIQU扱いで2通届いていたという。これらを優先度指定次いで到着順に解読していくため余計な時間がとられ、また、当時のタイプライターは一度打った文字を修正することは出来ず、いったん全部解読してみないと、訂正文が出てくると全て初めから打ち直すことになりかねないものであったとされる。結城司郎は、時間切迫による緊張や誤字、訂正電報のためにタイプ完了は午後1時50分だったとする。 この問題について外務省は調査委員会を設立し調査を行ったが、調査結果は公表されなかった。1994年11月20日に外務省は当時の調査委員会による調査記録「昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」を公開した。現在この資料は「外交史料館報」第8号で閲覧可能である。この調査などに基づく通説では、6日夜に大使館員が南アメリカへ転勤する寺崎英成の送別会をメイフラワー・ホテルの中国料理店で行っていたこと、奥村が送別会後も大使館に戻って浄書を行わず知人の家にトランプをしに行っていたこと、奥村の英訳親書の浄書・タイプが遅れたこと、14分割目に「大至急」の指示が付されておらず「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文の続きであることがわからなかったことなどが原因であるとされている。(この外務省調査は本来行うべき外務省からの発信時刻を調査対象から外しており、その点に大野は疑念を呈している。) その他、大使館側の責任とする説には、大使館付陸軍武官が急死し、その葬儀に野村・来栖両大使らが出席して其れが影響したとする説、海軍武官実松譲が朝出勤してみると対米通牒とみられる電報が大量に溜まっていたため、大使館の怠慢が常習化していたとする説等がある。(ただし、長崎純心大学教授塩崎弘明は葬儀の列席者名簿を確認したところ両大使は出席していなかったと云う。また、井口武夫によれば本省からの公電は大使館員の受領サインが得られなければ電信会社に持ち帰られる習わしで、実際には当日の公電は当直が受け取っており、実松が見たのは急死した武官への知人らからの弔電であるとし、塩崎もこの弔電を遺族から発見している。) このような大使館のミスによる失態であるとの通説に対して、奥村とともに責任を問われることがある大使館総括参事官の井口貞夫は生前に「自分の管掌事務ではなく」と主張していた。またその息子である井口武夫元ニュージーランド大使も、彼自身の調査研究の結果として外務省本省が負うべき落度を現地大使館に責任転嫁しているとして、奥村書記官を含めて大使館側に失態はなかったと主張している。大野哲弥は近年はこの説を支持するものが増えているようだとする。
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