「帝国政府ノ対米通牒覚書」の遅れを巡る問題とは? わかりやすく解説

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「帝国政府ノ対米通牒覚書」の遅れを巡る問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:50 UTC 版)

真珠湾攻撃」の記事における「「帝国政府ノ対米通牒覚書」の遅れを巡る問題」の解説

「帝国政府ノ対米通牒覚書」現地時間1941年12月7日午後2時20分(日本時間昭和16年12月8日午前4時20分)に特命全権大使来栖三郎大使野村吉三郎より、国務省において国務長官コーデル・ハル手交された。これは指定時間から1時間20分遅れで、マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、真珠湾攻撃1時間後だった。 ハル通告遅れたことについて、「日本政府午後一時に私に合うように訓令したのは、真珠湾攻撃数分前に通告を私に手渡すつもりであったのだ。(中略野村は、この指定時刻重要性知っていたのだから、たとえ通告最初数行しかでき上がっていないにしても、あとはできしだい持ってくるように大使館員にまかせて正に一時に会い来るべきであった」としている。 ルーズベルトは、12月6日午後9時半過ぎに、パープル暗号解読され日本側から手交される前の「帝国政府ノ対米通牒覚書」13部目までを読み、「これは戦争ということだね(This means war.)」とつぶやいたという(しかし、「帝国政府ノ対米通牒覚書」宣戦布告ではなかったので、ルーズベルトがこの時点ではまだ読んでいなかった最終部分14部目にも、すでに読み終わっていた1~13部目にも、どこにも日本宣戦布告をするとは書かれていなかったことに注意)。 ルーズベルト「帝国政府ノ対米通牒覚書」手渡したL.R.シュルツ海軍中佐回想によると、この時のルーズベルト側近ハリー・ホプキンズ会話は以下のように続く。 ホプキンズ:「われわれが最初の攻撃加えていかなる種類奇襲をも阻止することができないのは残念なことだ」ルーズベルト:「いや、われわれにはそれができないんだよ。われわれは民主主義国で平和愛好国民だ。しかし、われわれにはいい記録がある」 コタバル上陸により始まったマレー作戦は無通告開始されているが、イギリスウィンストン・チャーチルが皮肉を言った程度抗議すらしていない東郷から駐米大使野村吉三郎宛に、パープル暗号により暗号化された電報昭和16年12月6日東郷大臣野村大使宛公電第九一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館届けられていた。この中では、「対米覚書」が決定されたことと、機密扱い注意手交できるよう用意しておくことが書かれていた。 「昭和16年12月7日東郷大臣在米野村大使宛公電第九二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃から引き続き到着し電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読終了していた。それまでのものはこれまでの交渉経過縷々述べたもので結論が何か予想できるものなく、肝心14分割目のみが異常に遅れて午前3時時点でも到着しておらず、電信課員上司指示帰宅した。もともと大使館電信会社との間で、緊急の電信についてはvery urgentとの用語を決め、その用語の付され電文時間問わず深夜であっても電話連絡して直ち配達することになっていたが、東京外務省本省指示でいったん緊急はKINQU、大至急はDAIQU、至急はSHIQU等の符牒設け、KINQUとDAIQUはかつてのvery urgent同様に扱うことにさせられていた。13分割目までこれらの扱いになっていなかった。さらに、急ぐ筈の14分割目は符牒ではなく英文very importantになっており、そのため、米側の電信会社電報翌朝通常の配達時間配達される扱いとなった考えられ結局14分割目は7日7時前後到着したと見られる。さらに訂正指示する電文2通が合わせて届いていた。また、井口武夫研究によれば通告の手時間指示する九〇七号電報東京本省指示変えた筈の符牒のKINQUではなく元の英文の形のvery urgentとして送るよう指示されており、それがさらに東京から実際送信では"urgent,very important"に変わった形で、この7日午前中に届いた。「九〇四号覚書の作成現地人タイピスト利用しないようにとの注意、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示書かれていた。また、暗号解読機本省指示により1台を残して破壊されていた。なお、14分割目の不自然さに関しては、戦後入ってこの問題指摘する声が上がっている。 当時大使館一等書記官だった結城司郎は、朝に大使館出勤した電信課員午前9時半から10時頃までに全員集まり解読作業開始し昼の12時30分頃に問題14通目の解読終了したと言う。(暗号解読をした堀内正名自筆記録には、14分割目の解読正午くらい終わっていたので間に合うだろうと書かれているとされるまた、堀内文面内容から開戦通告とは認識しなかったとしている。)解読終わったものから順に一等書記官奥村勝蔵により修正清書されともされる。ただし、訂正指示電文が2通(外務省紛失している電文が2通あり、それがこの訂正電文であろう柴山哲也大野哲弥等多く研究者考えている)届いていた他、さらに単なる人事異動のあった職員への慰労文までが大野哲弥の研究によればDAIQU扱いで2通届いていたという。これらを優先度指定次いで到着順に解読していくため余計な時間がとられ、また、当時タイプライター一度打った文字修正することは出来ず、いったん全部解読してみないと、訂正文が出てくると全て初めから打ち直すことになりかねないものであったとされる結城司郎は、時間切迫による緊張誤字訂正電報のためにタイプ完了午後1時50分だったとする。 この問題について外務省調査委員会設立し調査行ったが、調査結果公表されなかった。1994年11月20日外務省当時調査委員会による調査記録昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」を公開した。現在この資料は「外交史料館報」第8号閲覧可能である。この調査などに基づく通説では、6日夜に大使館員が南アメリカへ転勤する寺崎英成送別会をメイフラワー・ホテルの中国料理店で行っていたこと、奥村送別会後も大使館戻って浄書行わず知人の家にトランプをしに行っていたこと、奥村英訳親書浄書タイプ遅れたこと、14分割目に「大至急」の指示付されておらず「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文続きであることがわからなかったことなどが原因であるとされている。(この外務省調査は本来行うべき外務省からの発信時刻調査対象から外しており、その点に大野疑念呈している。) その他、大使館側の責任とする説には、大使館陸軍武官急死し、その葬儀野村来栖大使らが出席して其れ影響したとする説、海軍武官実松譲朝出勤してみると対米通牒とみられる電報大量に溜まっていたため、大使館怠慢常習化していたとする説等がある。(ただし、長崎純心大学教授塩崎弘明葬儀列席名簿確認したところ両大使出席していなかったと云うまた、井口武夫によれば本省からの公電大使館員の受領サイン得られなければ電信会社持ち帰られる習わしで、実際に当日公電当直受け取っており、実見たのは急死した武官への知人らからの弔電であるとし、塩崎もこの弔電遺族から発見している。) このような大使館ミスによる失態であるとの通説に対して奥村とともに責任問われることがある大使館総括参事官井口貞夫生前に「自分管掌事務ではなく」と主張していた。またその息子である井口武夫ニュージーランド大使も、彼自身調査研究結果として外務省本省が負うべき落度現地大使館責任転嫁しているとして、奥村書記官含めて大使館側に失態はなかったと主張している。大野哲弥は近年はこの説を支持するものが増えているようだとする。

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