南アメリカへ
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「リチャード・トレビシック」の記事における「南アメリカへ」の解説
1816年10月20日、トレビシックはペンザンスにて捕鯨船アスプ号に乗り込み、法律家とボイラー技師とともにペルーへ向かった。当初はUvilleに歓迎されたが、間もなく仲違いし告発されるにおよび、トレビシックはセロ・デ・パスコを去った。その後は鉱山技術のコンサルタントとしてペルー各地を転々とした。政府から一定の採掘権を与えられたが、そのための資金がなく、カハタンボ(英語版)の銅および銀の鉱山にたどり着いた。一時期シモン・ボリバルの軍に徴用されたが、カハタンボに戻った。しかしスペイン軍と解放軍の衝突が続き、情勢が不安定となったため、採掘済みの5000ポンド相当の鉱石を残したまま避難せざるを得なくなった。Uvilleが1818年に亡くなると、トレビシックはセロ・デ・パスコに戻って採掘を続けた。しかし解放戦争の影響でペルーを離れ、いったんイングランドに戻っている。するとコーンウォールで妻子を放っておいたとして訴えられた。
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南アメリカへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:17 UTC 版)
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。 1931年には、新しい愛人マドレーヌ (Madeleine Lequeux 1910 - 1936)を連れて個展開催のため、南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
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