アメリカに対する宣戦布告の決定をめぐる問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 02:27 UTC 版)
「日本の対米英宣戦布告」の記事における「アメリカに対する宣戦布告の決定をめぐる問題」の解説
「真珠湾攻撃#「帝国政府ノ対米通牒覚書」と宣戦布告」も参照 1931年(昭和6年)に発生した満州事変以来悪化の一途を辿ってきた日米関係を解決するため、1941年(昭和16年)4月から日本国政府およびアメリカ合衆国政府間で一連の交渉(日米交渉)がワシントンで続けられていた。 しかし、11月26日(ワシントン時間、日本では翌27日にあたる)コーデル・ハル国務長官から日本側に提示された所謂「ハル・ノート」は日本本国の政策決定過程においては最後通牒と主張され、開戦の決定に至った。「ハル・ノート」は自らを試案であり拘束されるものでないとしており、これが実際に最後通牒であったかどうかは議論があるものの、日本国政府では11月1日に開かれた大本営政府連絡会議及びそれを受けて11月5日に開催された御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」において、11月末までに日米交渉が成立しない場合には武力発動に移る方針が決定されており、日本側から提示された「乙案」と「ハル・ノート」の差が大きい以上、戦争は避けられない状況にあったとの主張も、日本にある。ただし、「ハル・ノート」中の中国からの撤兵要求について、東郷自身は当時の日本の政策決定過程において、この中国に満州を含むかどうかは重要な問題で、当時彼自身は初めから満州を含むものと考えて報告し、それがため開戦が決まったかのように戦後主張している。一方で、責任ある地位にいた者の中で「満州を含む」と解釈していたとは認められず、これは結局、戦後に戦犯裁判に架けられた者の側からの日本は戦争に追い込まれたとする一種の陰謀論ではないかとする説もある。両説どちらからも、東郷のそもそもの真意や実際の行動がどうであったか、疑問が呈されている。いずれにせよ、日本国政府は11月27日及び29日の大本営政府連絡会議及び29日の重臣会議の合意を経て12月1日午後2時に開催された御前会議において、開戦の方針が正式に決定された。
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