軍令部条例及び省部互渉規定改定
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「寺島健」の記事における「軍令部条例及び省部互渉規定改定」の解説
1933年(昭和8年)1月、伏見宮海軍軍令部長、大角岑生海相、閑院宮参謀総長、荒木貞夫陸相の四者は「兵力量の決定に就て」という名の文書に署名を行う。この文書には兵力量は「参謀総長、軍令部長が立案する」と記され、加藤寛治から枢密顧問官金子堅太郎にも送付されている。この内容は上述した憲法12条に対する海軍の従来の考え方を覆し、参謀本部と同様の立場に立つものである。同年3月、軍令部は海軍省に軍令部条令及び省部互渉規定改定を提案した。当時の省部主要幹部は以下のとおりで、海軍省の寺島、井上は条約派、軍令部の伏見宮、高橋、南雲は艦隊派に分類される。 海軍省 大臣 大角岑生 (海兵24期) 次官 藤田尚徳 (海兵29期) 軍務局長 寺島健(海兵31期) 第一課長 井上成美 (海兵37期) 軍令部 軍令部長 伏見宮博恭王(海兵18期相当) 次長 高橋三吉 (海兵29期) 第一班長 嶋田繁太郎 (海兵32期) 第二課長 南雲忠一(海兵36期) 改定案は多岐にわたるが、重要な点は海軍軍令部長の「国防用兵に関することを参画し親裁の後之を海軍大臣に移す」との規定を「国防用兵の計画を掌り用兵の事を伝達す」に変更、また「用兵」の範囲は省部互渉規定で定めることとし、その互渉規定でも海軍省から軍令部に権限を移すことにあった。なおこの提案は軍令部に起案権すらないものである。改定案は軍務局員河野千万城に持ち込まれ、上司の第一課長井上成美が自ら処理にあたり、南雲忠一との交渉で改定案を認めなかった。この井上の態度は寺島、藤田両人の了解の上である。井上の反対理由は大きく3点に分かれており、クラス会限りとして著した「思い出の記」から引用する。 一 海軍大臣は統帥の一部に関することを掌り、それに関する輔弼(憲法上の)の責任を持っておる。之は軍の特殊性に基づく軍部大臣特有のもので、大臣が国務大臣として責任を果たす為、当然のものである。 二 軍部大臣の掌理する統帥に関する国務は、極めて深い専門知識と経験とを必要とする。従って軍部大臣は是非共軍人でなければならない。尚、吾々は吾々の尊敬する先輩を大臣に戴いてこそ職務に張合いもあるが、海軍の事など判る道理もない政党人などに大臣に来られて、喜んでその下で死ねるかっ!!というのは理屈ぬきの吾々の強い感情である。軍令部要求の如く大臣の権限を大幅に縮小することは、文官大臣論に有力な武器を与えることになる。 三 軍令部長は大臣の部下ではない。又憲法上の機関でもないから、憲法上の責任をとることがない。(結構な御身分で)法の上での責任をとらない。そして大臣の監督権も及ばない人に非常に大きな力を持たせることは、憲法政治の原則に反するし、又、危険である。 この第三項は、井上特有のものではなく、海軍内に基本的に存在していた考え方であった。6月、交渉は寺島と嶋田に移るが、寺島は強硬な態度で反対し、改定項目の二、三に同意したのみで、残り全項目を拒否した。なお寺島の言によれば、伏見宮に対し「制度は間違いのない責任体制を持たねばならぬ」と述べ、伏見宮の不興を買っている。事態は膠着し、交渉は藤田次官と高橋次長、大角海相と高橋部長代理に段階を移しても解決には至らず、最後は7月の大角海相と伏見宮海軍軍令部長の会談で基本的に妥結している。こうして海軍の伝統であった海軍省の軍令部に対する優位は崩れた。この妥結に対し海相経験者の斎藤実首相、海軍軍令部長経験者の鈴木貫太郎侍従長は不満を表明した。大角海相の上奏を受けた昭和天皇は海軍省の所掌事項への軍令部の過度の介入を懸念し、大角からその回避ができるかを書類で提出させている。 同期生の長谷川清は寺島の離現役について「物事は全体をよく見極めることが大切であって、改革は当面の仕事に対する便宜だけで決定すべきではない。人事も同様である」と語った。 同じく同期生で寺島の後任の練習艦隊司令官となった松下元は、その栄転を喜ばず「クラスの逸材寺島が急に罷免されたことについて、何だか普通でないものを感じます」と語った。 寺島はこの妥結後に原田熊雄に対し、加藤寛治、金子堅太郎、大角、伏見宮の動きなどの裏面事情を語り、改定を食い止めようとした旨を語っている。しかし寺島は最後まで抵抗を続けた井上の説得を図ってもいる。寺島の言葉は「今度ある事情により、この軍令部最終案により改正を実行しなければならないことになった。こんなバカな軍令部案によって制度改正をやったという非難は局長自ら受けるから、枉げてこの案に同意してくれないか」というものであった。井上は直属上司たる寺島の言葉にも妥協しなかった。 9月、寺島は練習艦隊司令官に転出した。この職位は海軍兵学校などを卒業した少尉候補生の実務訓練にあたる顕職である。しかし翌月に軍令部出仕を命じられ、翌年3月、52歳で予備役に編入された。この際寺島は「男子由来尚潔清 毀誉褒貶任人評 請見猛夏殷雷後 霽月光風天地清」という漢詩を残した。寺島に関する人事は満州事変に際し、日米戦争を招く危険を考慮して陸軍の動きに反対した谷口尚真、ロンドン会議において軍縮条約賛成派であった山梨勝之進、左近司政三、堀悌吉ら条約派将官の予備役編入と同じ動きであり、いわゆる大角人事の一環である。寺島の離現役は国会でも問題になり、一連の人事に不審を抱いた中澤佑は、山梨勝之進に事情を聴いている。山梨は大角海相に対する伏見宮と東郷平八郎の圧力を挙げ、「東郷さんの晩節のために惜しむ」と語った。
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