軍令部第五課
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実松は軍令部第三部第五課の米国班長に補され海大教官を兼務した。着任当時の第五課は課長を含めた人員が4名、内1名は他の職務との兼任者であり、人員の不足は明らかであった。人事局は士官が不足している状況から正規士官の配員に難色を示しており、短期現役士官や予備士官によって充員が行われる。人員拡充は引き続き行われ、1944年(昭和19年)7月には士官以外の者を含め54名となっている。こうして対米情報作業が本格化したのはすでにサイパンの戦いが終結する時期で、実松は「海軍は腰だめで戦争した」とその情報軽視を批判している。第五課で実松らが行った対米情報作業は捕虜から情報を得ることも方法としていたが、主として統計的手法を用いて米側の企図を判断するものであった。基礎となる情報は、米国のラジオ放送や中立国経由で入手したものであり、これを解析して第五課が提供する対米情報は連合艦隊司令部の作戦に直接役立っていた。実松は米軍の主攻勢方面も的確に言い当てている。主攻勢方面については3つの可能性が考えられていたが、実松は以下のように主張していたのである。日米の決戦であったマリアナ沖海戦は中部太平洋で生起し、軍令部作戦課員であった源田實は実松のこの判断を「さすがに的確」であったと述べている。 米軍は今厖大極まる艦艇建造を推進して居り、その主力は、エセックス型の航空母艦である。米軍がこの有力な母艦部隊を遊ばせておくはずはない。しかし、大機動部隊を全幅利用しようとすれば、天地気象及び作戦海面の広狭等から考えてみるに、中部太平洋方面以外に場所はない。従って、彼は機動部隊の整備完了次第、我が内南洋に対して攻勢を開始するであろう。 — 源田實 海軍航空隊始末記より引用 実松ら第五課が作成した対米情報はほぼ正確なもので、米軍は暗号解読や諜報組織の存在を疑い戦後に実松を問い詰めている。実松はその手法を説明したが、米軍士官の理解を超えていたという。この際実松らが作成し、米軍士官が説明を求めた『対日作戦米地上部隊配備推定要図』は"血みどろな不断の努力の結晶"であった。 一方、実松はアメリカ情報を得る一環として、尋問を目的とした捕虜収容施設である横須賀海軍警備隊植木分遣隊(通称・大船収容所)の運営にも深く関与した。実松自身は戦後の1974年、『別冊週刊読売』9月号に「大船収容所始末記」という手記を寄せている。それによると、「現実の捕虜を目の前にしてなんの情報も得られないのも残念な話である。なんとかして彼らを利用したい」という理由でこの施設は設置された。実松は手記の中で「捕虜からバカにされるような尋問者は、とても有用な情報を入手できない」「情報を提供させるためには、まず第一に捕虜の立場を理解することである。(中略)矢折れ力尽きて敵の軍門に降ることを、彼らはあえて異としない。だから、われわれとは本質的に違う”捕虜心理”をよく念頭におき、彼らに接し、彼らを遇することが必要であろう」と記している。大船収容所で実松の尋問を受けたグレゴリー・ボイントンが「(実松の)物腰は非常に穏やかであった」と戦後の回想に記している一方で、収容所長の海軍少尉は「黙秘する捕虜への殴打や食事抜きなどを実松から命じられた」と戦後に証言している。施設への収容中は国際法上の正式な捕虜の扱いをせず、尋問終了後に陸軍の管轄する正式な収容所に移されたが、移送の判断は実松に委ねられていた。
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