軍令部総長候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:59 UTC 版)
山本五十六、古賀峯一、2人の連合艦隊司令長官が戦死・殉職する悪化した戦局のなか、末次は教育局長の高木惣吉に東條内閣の倒閣に協力することを約束し、嶋田繁太郎を問い詰め回答不能に追い込んでいる。予備役となって7年あまり経っているこの時期にも、末次は戦局に対し優れた見識を見せていた。 戦争終結を意図していた岡田啓介は、海軍大臣兼軍令部総長・嶋田繁太郎を更迭することで東條内閣倒閣の契機を掴もうと図り、米内を海軍大臣に末次を軍令部総長として現役復帰させることを提案した。岡田にとっては、米内の海軍大臣就任が眼目であったが、米内の円満な復帰のため末次の系統へも配慮したのである。また末次の手腕に期待する海軍部内の空気もあった。石川信吾、高橋三吉のお膳立てもあり、両人の引き合わせが実現。末次、米内は協力を約束した。末次はサイパン島奪回に熱意を示していたという。 米内の現役復帰と海軍大臣就任が実現した後、米内は末次の軍令部総長就任に向けて意気込んだが、伏見宮をはじめとする海軍首脳と陸軍の強い反対のため実現しなかった。末次本人の急病もあったが、昭和天皇も反対であった。 1944年(昭和19年)12月29日、薨去。墓所は多磨霊園にある。
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