戦死・殉職
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もとより国民政府は「大陸反攻」を呼号し、中国本土も本来は国民政府の統治すべき地域で、そこを台湾空軍の航空機が飛行することを何ら問題にしていなかった。また、当時の中国空軍の地対空ミサイル大隊は、わずかに北京軍区と南京軍区にそれぞれ一個大隊しかなく、しかも大隊が保有するのは命中率2%というS-25 ベールクト(SA-1 ギルド)(英語版、ロシア語版)の発射機5基のみであった。しかし、人民解放軍空軍の遠距離警戒網が優れており、U-2の離陸から着陸までをほぼ100%探知していた上に、レーダーと地対空ミサイル部隊の連絡が充実していた。しかも、国民政府は飛行コースを安易に選んでおり、1962年7月までの11回の偵察飛行の内、8回が江西省南昌市上空を飛行していた。このことを知った中国人民解放軍は、地質掘削調査隊を装って地対空ミサイル大隊を南昌に移動させ、U-2を待った。これが、同年9月9日の最初の撃墜に繋がった。 結果として、中隊が存続した14年間の間に、5機のU-2が中国人民解放軍空軍の地対空ミサイルで撃墜され、3名のパイロットが戦死し、2名のパイロットが捕虜となった。中国がU-2を撃墜できるようになったのは、後述するように、ソ連でのU-2撃墜事件(1960年)でも使われた「SA-2」など、ソ連から導入した高高度地対空ミサイルを配備したためである。 このほか、1名のパイロットが任務中の墜落事故で行方不明となり、訓練飛行中に8機のU-2が墜落し、6名のパイロットが殉職している。 1962年9月9日、陳懐生少校搭乗のU-2C「378」が桃園飛行場から西安市方面への偵察飛行に向かったが、江西省南昌市で人民解放軍のS-75/SA-2が撃墜。陳少校は戦死。 1963年11月1日、葉常棣少校搭乗のU-2が武漢市の核兵器施設らしき軍事基地への偵察飛行に向かったが、江西省鷹潭市で人民解放軍のSA-2が撃墜。葉少校は捕虜となり、裁判で労働改造所へ10年送致の判決が下された。1983年10月10日(この日は中華民国国慶日でもある)に張立義少校と共に香港で釈放されたが、国民政府は受け入れを拒否。CIAの援助の下、アメリカへ亡命。 ベトナム戦争下の1964年7月7日、李南屏中校搭乗のU-2がフィリピンのクラーク空軍基地から海南島の対北ベトナム補給路への偵察飛行へ向かったが、広東省澄海県上空で人民解放軍第2対空ミサイル大隊のS-125/SA-3を3発被弾。李中校は脱出を図ったが、射出座席に火薬が装填されておらず戦死。 1965年1月10日、張立義少校搭乗のU-2Cが、江蘇省崑山市から山東半島を経て内モンゴル自治区包頭市の原爆工場への赤外線写真偵察に向かったが、午前2時に2発のS-75/SA-2を左右の主翼に被弾して墜落。張少校は捕虜となり、裁判で労働改造所へ10年送致することとされた。1983年10月10日に葉常棣少校と共に香港で釈放されたが、国民政府は受け入れを拒否。CIAの援助の下、アメリカへ亡命。 1967年9月8日、黄栄北少校搭乗のU-2が江蘇省方面への偵察飛行に向かったが、浙江省嘉興市で人民解放軍のHQ-2(紅旗-2、S-75/SA-2の中国国産化コピー)が撃墜。黄少校は戦死。 1969年5月16日、張燮少校搭乗のU-2が河北省方面への夜間偵察飛行に向かったが、済州島南方100海里で墜落。1週間の捜索にも関わらず遺体や機体は発見されず、張少校は行方不明となった。
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