戦死とその後
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明治2年(1869年)3月、新政府軍蝦夷地征伐の報せを聞いて、海軍奉行となった荒井やフランス軍人らと協議の末、「甲鉄艦」奪取作戦を決行。甲賀は「敵を待つよりは積極的に攻めよう」という信念から、作戦の中心になっていたと見られる。甲賀の指揮する旗艦「回天丸」は、「蟠竜丸」、「高雄丸」とともに宮古湾をめざしたが、悪天候のため、「蟠竜丸」ははぐれ、「高雄丸」は故障し、「回天丸」のみが宮古湾海戦に突入することとなった。甲賀は「我一艦といえども以て敵を破るに足れり」と言ったと伝えられる。劣勢に耐えて左足や右腕を銃弾に撃ち抜かれながらも甲板上で猛然と指揮していた甲賀だったが、ついに頭(こめかみ)を撃ち抜かれて戦死した。享年31。 「回天丸」は荒井が操舵して26日に箱館へ帰還し、戦死者はその翌日埋葬された。埋葬場所は某寺だったが、後に碧血碑の後ろに改葬されたという。また昭和6年(1931年)、誕生地の旧掛川藩邸にほど近い東京都駒込の大観音光源寺境内に、甥で死後養子の甲賀宣政が記念碑を建てた。
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戦死とその後
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終戦後の1947年、妻の澄子宛に「昭和19年7月29日、補充兵長・松本力治はニューギニア方面にて戦病死」との公報が届いた。ただ、後に帰還した戦友が妻に語ったところによれば、戦病死ではなく空襲を受けての戦死だったともいい、没した日が4月30日であったとの証言もあり、詳細な最期は不明。好敵手であった東海林太郎が歌手としてデビューした36歳という年齢での無念の死である。東海林は同じ会社の同僚として、その死を悼み「上原君はどうも帰って来られなくなったらしい。大衆の心を捉える歌い方をするいい歌手だった。」と知人に語ったという。 「鴛鴦道中」で上原とともにスターとなった青葉笙子は結婚のため1941年引退し、上原が出征したことも知らなかったが終戦直後、偶然にも上原敏戦死の新聞記事を見つけた。わずか7年間の歌手生活を駆け抜けた上原を偲び、青葉は上原の顕彰活動を続け、平成に入ってからも澄子未亡人とともに上原の終焉の地を訪れ、英霊に届けとばかりに「流転」を歌ってその死を悼んだ。その人生は、サラリーマンから芸能界という華やかな世界に転進しながらも、一人の小市民として、戦争の時代という抵抗できない波の中に消されてしまった。 1976年、上原の故郷である秋田県大館市の桂城公園に上原敏の顕彰碑が建立された。現在は上原の戦死した日とされる7月29日に、慰霊祭である流転忌が毎年行われている。2000年9月26日には、ドキュメンタリー番組「ジャングルの鎮魂歌 ~上原敏と戦後~」(秋田テレビ制作)が放送されたほか、上原の没後70年を迎えた2014年には、母校の専修大学で企画展が開催され、多くの来場者を集めた。
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