戦死とその後とは? わかりやすく解説

戦死とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 00:56 UTC 版)

甲賀源吾」の記事における「戦死とその後」の解説

明治2年1869年3月新政府軍蝦夷地征伐報せ聞いて海軍奉行となった荒井フランス軍人らと協議の末、「甲鉄艦奪取作戦決行甲賀は「敵を待つよりは積極的に攻めよう」という信念から、作戦中心になっていたと見られる甲賀指揮する旗艦回天丸」は、「蟠竜丸」、「高雄丸とともに宮古湾めざしたが、悪天候のため、「蟠竜丸」ははぐれ、「高雄丸」は故障し、「回天丸」のみが宮古湾海戦突入することとなった甲賀は「我一といえども以て敵を破るに足れりと言った伝えられる劣勢に耐えて左足右腕銃弾撃ち抜かれながらも甲板上で猛然と指揮していた甲賀だったが、ついに頭(こめかみ)を撃ち抜かれ戦死した享年31。 「回天丸」は荒井操舵して26日箱館帰還し戦死者はその翌日埋葬された。埋葬場所は某寺だったが、後に碧血碑後ろ改葬されたという。また昭和6年1931年)、誕生地の旧掛川藩邸にほど近い東京都駒込大観音光源寺境内に、甥で死後養子甲賀宣政記念碑建てた

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戦死とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 07:24 UTC 版)

上原敏」の記事における「戦死とその後」の解説

終戦後1947年、妻の澄子宛に「昭和19年7月29日補充兵長・松本力治はニューギニア方面にて戦病死」との公報届いた。ただ、後に帰還した戦友が妻に語ったところによれば、戦病死ではなく空襲受けて戦死だったともいい、没した日が4月30日であったとの証言もあり、詳細な最期不明好敵手であった東海林太郎歌手としてデビューした36歳という年齢での無念の死である。東海林は同じ会社の同僚として、その死を悼み上原君はどうも帰って来られなくなったらしい。大衆心を捉える歌い方をするいい歌手だった。」と知人語ったという。 「鴛鴦道中」で上原とともにスターとなった青葉笙子結婚のため1941年引退し上原出征したことも知らなかった終戦直後偶然に上原敏戦死新聞記事見つけた。わずか7年間の歌手生活駆け抜け上原を偲び、青葉上原顕彰活動続け平成入ってからも澄子未亡人とともに上原終焉の地訪れ英霊届けとばかり「流転」歌ってその死を悼んだその人生は、サラリーマンから芸能界という華やかな世界転進しながらも、一人小市民として、戦争の時代という抵抗できない波の中に消されてしまった。 1976年上原故郷である秋田県大館市桂城公園上原敏顕彰碑建立された。現在は上原戦死したとされる7月29日に、慰霊祭である流転忌が毎年行われている。2000年9月26日には、ドキュメンタリー番組ジャングル鎮魂歌上原敏戦後~」(秋田テレビ制作)が放送されたほか、上原没後70年迎えた2014年には、母校専修大学企画展開催され多く来場者集めた

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