「命のビザ」とは? わかりやすく解説

「命のビザ」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)

杉原千畝」の記事における「「命のビザ」」の解説

ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会知られユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生集まっていた。そのなかに祖国ドイツ降伏したため無国籍になったオランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいた。グットヴィルトは、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディク出国協力求めた。ズヴァルテンディクは、今日でも有名なオランダ企業フィリップス社のリトアニア支社長だったが、1940年昭和15年5月バルト諸国担当オランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請受けてナチス共鳴者のティルマンス博士代わりカウナス領事就任していた。祖国蹂躙したナチス強く憎んでいたズヴァルテンディクは、グットヴィルトらの国外脱出協力約束6月末にグットヴィルトは、ワルシャワ大学出身弁護士ユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティクにこの件のことを相談した。ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナムキュラソー初めとするオランダ領への入国ビザを必要とせずと認む」とフランス語書き込んでくれた。 ズヴァルテンディクによる手書きビザ途中でタイプ替わり難民全員の数を調達できない考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事サインのついたタイプ文書スタンプ作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館持ち込んだのであるドイツ軍追撃してくる西方退路探すのは問題外だった。そして、今度トルコ政府ビザ発給拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルート閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちがカウナス日本領事館殺到したのには、こうした背景があった。 1940年昭和15年7月ドイツ占領下ポーランドからリトアニア逃亡してきた多くユダヤ系難民などが、各国領事館大使館からビザ取得しようとしていた。当時リトアニアソ連軍占領されており、ソ連各国に在リトアニア領事館大使館閉鎖求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務続けていた日本領事館名目上行き先オランダ領アンティルなど)への通過ビザ求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日光景をこう描いている。「6時少し前。表通り面した領事公邸寝室窓際が、突然人だかり喧し話し声騒がしくなり、意味の分からぬわめき声人だかり人数増えるためか、次第高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレ服装をした老若男女で、いろいろの人相人々が、ザッと100人も公邸鉄柵寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。 ロシア語書かれ先の報告書あるように、カウナス領事館設置された目的は、東欧情報収集独ソ戦争時期特定にあったため、難民殺到想定外出来事であった。千畝は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府諜報機関活用しており、「地下活動たずさわるポーランド軍将校4名、海外親類援助得て来た数家族、合計15名」などへのビザ発給予定していたが、それ以外ビザ発給外務省参謀本部了解得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟締結控えてカウナスからの電信重要視していない本省と、生命危機が迫る難民たちの切迫した状況把握していた出先の千畝による理解との温度差由来している。 ユダヤ人迫害惨状熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断日数二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きビザも間に合う」だろうと情状酌量求め請訓電報打った。しかし本省からは、行先国の入国許可手続完了し旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証発給せよとの発給条件厳守指示繰り返し回電されてきた。 杉原夫人が、難民たちの中にいた憔悴する子供の姿に目を留めたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という旧約聖書預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かんだ。そして、「領事権限ビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで千畝は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件満たしていない者に対して独断通過査証発給した日本では神戸などの市当局困っているためこれ以上ビザ発給しないよう本省求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられない予期していましたが、自分人道的感情人間への愛から、1940年8月31日列車カウナス出発するまでビザ書き続けました」とし、避難民たちの写真同封したこの報告書のなかで、千畝はビザ発給理由説明している。 千畝によるビザ発給対す本省注意は、以下のようなものであった。 「最近貴館査證本邦經由米加行『リスアニア人中携帶僅少爲又行先國手未濟爲本上陸許可スルヲ得ス之カ處置ニ困リ居ル事例アルニ附避難民ト看傲サレベキ者ニ對シテハ行先國ノ入國手續完了シ居リ且旅費本邦滯在費等ノ相當ノ携帶金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル樣御取計アリタシ」【現代語訳最近カウナス領事館から日本経由してアメリカ・カナダ行こうとするリトアニア人なかには必要なお金持っていなかったり行先の手続き済んでいなかったりなどの理由で、わが国の上陸を許可できずその処置に困ることがあります避難民見なしうる者に関しては、行先国の入国手続きを完了し旅費滞在費等に相当する携帯金を持っている者でなければビザ与えないよう取りはからって下さい】 — 1940年8月16日付の本省から条件満たしていない者が居ると注意受けた電信 1995年平成7年7月12日日本外交ユダヤ関連著者パメラ・サカモトが松岡洋右外相秘書官だった加瀬俊一に千畝のカウナスからの電信について問い合わせてみても、「ユダヤ問題に関する電信覚えていなかった。『基本的に当時は他の切迫した問題がたくさありましたから』」と加瀬答えており、東京本省条件不備難民ユダヤ人問題などまるで眼中になかった。それどころか、日独伊三国軍事同盟締結間近な時期に、条件不備大量難民日本送り込んできたことに関して、「貴殿ノ如キ取扱ヲ爲シタル避難民後始末ニ窮シオル實情ナルニ付」(昭和15年9月3日付)と本省怒り露わにし、さらに翌年も「『カウナス本邦領事査證」(2月25日付)と、千畝は名指し厳しく叱責された。 窮状にある避難民たちを救済するために、千畝は外務省相手芝居打った。もし本省からの譴責真っ向から反論する返電送れば本省からの指示無視したとして、通行査証無効になるおそれがある。そこで千畝は、本省からビザ発給に関して条件厳守指示する返信などまるでなかったかのように、「当國避難中波出身猶太工業家『レオン、ポラク』五十四歳」(昭和15年8月24日後發)に対すビザ発給可否問い合わせる。つまり、米国へ入国許可が確実で、十分な携帯金も所持しており、従って本省から受け入られやすい「猶太工業家」をあえて採り上げるためである。 そして千畝は、わざと返信遅らせてビザ発給条件に関する本省との論争避け公使館閉鎖したあとになって電信67号(8月1日後發)を本省送り行先国の許可必要な携帯金のない多く避難民に関しては、必要な手続き納得させたうえで当方ビザ発給しているとして強弁して表面上は遵法装いながら、「外國人入國令」(昭和14年内務省第6号)の拡大解釈既成事実化した一時に多量ビザ手書きし万年筆折れペンインクをつけては査証認め日々が続くと、一日終わりぐったり疲れてそのままベッド倒れ込む状態になり、さらに痛くなって動かなくなった腕を夫人マッサージしなくてはならない事態にまで陥った。手を痛めた千畝を気遣い、千畝がソ連情報入手していた、亡命ポーランド政府情報将校「ペシュ」ことダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印作って一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印作られた。 ソ連政府本国から再三退去命令を受けながら、一か月あまり寝る間も惜しんでビザ書き続けた千畝は、本省からのベルリンへ異動命令無視できなくなると、領事館すべての重要書類焼却し家族とともに今日まで残る老舗ホテルメトロポリス」に移った杉原領事印を荷物梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。そして9月5日ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原車窓から手渡しされたビザ書き続けたその間発行されビザ枚数は、番号付され記録されているものだけでも2,139のぼった汽車走り出し、もうビザ書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けないみなさんご無事祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたに会いしますよ」という叫び声あがった。そして列車並んで泣きながら走っている人が、千畝たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていた。 ソ連1940年7月29日付の共産党中央委員会政治局によるスターリン署名入り決定で、難民領内通過認めた。これにはリトアニア併合円滑化するとともに難民利用するシベリア鉄道ホテル代金外貨獲得し、さらに世界散っていく難民からスパイリクルートする目的があったと推測されている。 なお、千畝同様に上司本国命令無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア中華民国領事何鳳山や、在ボルドー・ポルトガル領事アリスティデス・デ・ソウザ・メンデスがおり、ともに諸国民の中の正義の人認定されている。

※この「「命のビザ」」の解説は、「杉原千畝」の解説の一部です。
「「命のビザ」」を含む「杉原千畝」の記事については、「杉原千畝」の概要を参照ください。

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