「命のビザ」への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 15:16 UTC 版)
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきたユダヤ人難民たちは、日本への通過を求めてリトアニアの在カウナス領事館の領事代理だった杉原千畝にビザ発給を要求し、杉原は外務省の訓令に反して1940年7月から9月にかけて約2千通以上の日本通過ビザを発給した。ユダヤ人難民の大半はシベリア鉄道で移動し、日本への航路があったソ連のウラジオストクへ向かった。 根井は1940年(昭和15年)8月に本省より在ウラジオストク日本総領事館勤務を命じられ、12月には総領事代理(副領事)に任じられ翌年1月8日にウラジオストク着任したばかりであった。杉原が発行した日本通過ビザを持ったユダヤ人難民に対して、根井は2月8日より本省と電文にて協議を開始した。外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。だが、根井は3月30日付けの電報で「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、ビザを持つユダヤ人難民を福井県にある敦賀港行きの船に乗せ、ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書や通過ビザを発給した。1941年3月に根井と外務省が交わした電報は外交史料館に残っている。 なお、従来では杉原が発給したビザに根井が追認して署名したものが存在することは確認されていたが、根井自身が発給したビザはソ連の記録上にはあるものの、そのビザの実物は確認されていなかった。しかし、2020年(令和2年)5月に著述家の北出明によって、アメリカへ亡命したユダヤ人の子孫が根井発給のビザを持っていることが判明した。そのビザには「昭和16年2月28日 通過査証」「敦賀横浜経由『アメリカ』行」と記されていた。独自ビザの発給は6月2日まで続けられた。その後根井は8月17日から9月13日まで日本へ一時帰国し、1944年(昭和19年)11月よりソビエト連邦内にて再び勤務する。
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