極東ロシアとシベリア移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:13 UTC 版)
19世紀の李氏朝鮮は、国政が混乱して少数の両班達が大部分の土地を独占するようになった。現在の高麗人の祖先達は、中国の朝鮮族と同様に故郷を離れ、李氏朝鮮北部からロシアを目指したが、清の領地がそれを阻む形となった。それでも、朝鮮人移民第1期となった761家族5,310人は、当時清の領土だったシベリアに移住した。同地は1860年の北京条約によってロシアに割譲されることとなった。帝政ロシアは人口の少ない沿海地域を入植地として開放した。朝鮮半島北部はもともと農業には厳しい気候であった上、ひとたび飢饉が起こると農村は疲弊した。厳しい生活から逃れるために、窮乏農民が北へと流入した。 その後も、多くの農民達がシベリアに移住するようになり、19世紀末にはその数が急増し、1869年には朝鮮人が沿海州における人口の 20%を占めるようになった。シベリア鉄道が完成するより前に、極東ロシアにおける朝鮮人の人口はロシア人より多くなり、地方官吏達は彼らに帰化を推奨した。1897年のロシア帝国の人口調査によれば、ロシア全体で朝鮮語を話す人口が26,005人(男性:16,225、女性:9,780)という結果が出ており、この頃には多くの都市に高麗人村や高麗人農場ができるようになった。 20世紀初頭に、ロシアは日本と朝鮮半島における権益を巡って対立するようになり、1904年には日露戦争が勃発し、戦争は日本の勝利に終わった。1907年に、ロシアでは日本の干渉によって朝鮮人を排斥する法律が制定され、朝鮮人の農場主は土地を没収され、朝鮮人労動者達は職を失うこととなった。同時に、ロシアは朝鮮独立運動の為のシェルターとなり、朝鮮人の民族主義者達と共産主義者達はシベリアや沿海州、満州に亡命した。1917年10月の十月革命と東アジアでの共産主義の台頭とともに、シベリアは在ソ連朝鮮人の日本に対抗する為の独立軍養成の基盤になった。1919年に、ウラジオストクの新韓村(高麗人街)に集まった朝鮮のリーダーたちが三・一運動を支援した。この村は、軍隊の物資補給を含めた民族主義者達の足場となったが、1920年4月4日には日本軍の総攻撃によって、100人以上が死亡した。 ウラジオストクに移住した朝鮮人達は、キリスト教を受け入れるなど積極的にロシア文化に順応するようになった。何よりも、日本の影に怯えることなく働くことが出来るということが、移住の最大の理由だった。 1922年に、ロシアで共産主義を掲げるソビエト連邦が成立すると、日本は共産主義革命の波及を恐れて朝鮮半島北部で国境を接するソ連と激しく対立するようになった。一方で、ソ連国内における高麗人の人口は、1923年に106,817人にまで増加し、翌1924年からソ連政府によって国内の高麗人の人口を抑制する為の対策が取られるようになったこともあって、1931年にかつては比較的出入りの緩やかであった朝鮮と沿海州の国境は閉鎖されることとなった。
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