ユダヤ教からのキリスト教の自立
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「キリスト教の歴史」の記事における「ユダヤ教からのキリスト教の自立」の解説
紀元60年代のヤコブの処刑、続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争(66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)ファリサイ派がヤムニア会議で、ヘブライ語にルーツを持つもののみを聖典とすることが決定され、ギリシア語の七十人訳聖書はキリスト教徒にとってはこれも(旧約)聖書正典の一つとされるのに対し、ユダヤ教では「外典」となり、完全に袂をわかつことになった。ここにおいてユダヤ教とキリスト教の信条の相違は決定的となる。これ以降「キリスト教」としての歴史が始まったといえる。
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ユダヤ教からのキリスト教の自立
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「キリスト教」の記事における「ユダヤ教からのキリスト教の自立」の解説
60年代、ヤコブ、ペトロ、パウロが死ぬ。 66年から70年、第一次ユダヤ戦争の結果としてエルサレム神殿が崩壊したころ、ユダヤ教からキリスト教が自立した。 4世紀以降神学論争が激しくなり、教会が分裂をするようになる。暴力を用いる過激な教派が生まれてくる。 301年、アルメニア王国が初めてキリスト教を国教化。 325年、キリスト教徒の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスはニカイア公会議を開いた。それとともに、キリスト教の勢力を利用してローマ帝国の求心力低下の課題解決に図ることもコンスタンティヌスは意図していた。 325年、キリスト教徒の暴力抗争を解決するため、アリウス派は異端の教派とされ追放された。 380年、テオドシウス帝はキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。 381年、コンスタンティノープルで第1コンスタンティノポリス公会議がニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択した。 392年、国教となったキリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の信仰活動が帝国内において禁止される。 405年頃、ヒエロニムスが聖書のラテン語訳である『ウルガタ』を完成させる。 5世紀前半、アウグスティヌスが『神の国』を著述。 431年、エフェソス公会議において、ネストリウス派が異端の教派とされて追放された。 451年、カルケドン公会議においてカルケドン信条が採択された。また、単性論が異端の教義とされたが、エジプト、シリアやアルメニアを中心に合性論(正統派とされた側からは単性論の一種と見なされたが、合性論派はその見解を否定した)を支持する教会が多くあったため、各教会で対立主教が立つほどの分裂が生じた(非カルケドン派正教会の分立)。 このように国教となったキリスト教は、キリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の説を切り捨てることにより、キリスト教における一神教的世界観での正統派信仰を確立した。
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