異端の教義とは? わかりやすく解説

異端の教義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)

第二次ブルガリア帝国」の記事における「異端の教義」の解説

第二次ブルガリア帝国内では異端見做される教義信仰されていた。 第一次ブルガリア帝国時代からブルガリア内で活動していたボゴミル派は、ブルガリア内訌によって混乱する12世紀の末から信者増加させた。ボリル統治下では皇帝治世に不満を持つ民衆の間にボゴミル派流布したため、1211年2月タルノヴォ議会ボゴミル派異端宣告行って彼らを迫害した。しかし、ブルガリア社会定着したボゴミル派根絶することは不可能だった政情安定したイヴァン・アセン2世治世ボゴミル派への迫害緩和される14世紀に入るとボゴミル派信仰者一部修道士都市下層民に変化し様々な分派生まれた 民衆流布する異端に対して貴族層は14世紀半ば東ローマ提唱され静寂主義(ヘシカスム(英語版))の教え受け入れた静寂主義正教会教え調和する点もあったために正教教義組み入れられ、また支配層と密接な関係を有していた。静寂主義異端腐敗した聖職者ローマ教会との合同対す批判手段として機能し文学と芸術発展にも貢献した静寂主義普及と同じ時期に、コンスタンティノープル出身修道士医師テオドレトスタルノヴォにバルラーム主義もたらしたカラブリア出身修道士バルラーム(英語版)が提唱したバルラーム主義は、ギリシア哲学流れを汲む合理性備えていた。バルラーム主義都市下層民には受け入れられず、富裕層一部貴族支持者を得る。都市部ユダヤ系住民の間で信仰されユダヤ主義は、バルラーム主義類似した合理主義性を有していた。 1355年1360年タルノヴォ開かれた宗教会議では、既成権力対立する思想異端宣告がされた。14世紀開かれた2度宗教会議では、変質したボゴミル派以外にバルラーム主義ユダヤに対して弾圧加えられた。

※この「異端の教義」の解説は、「第二次ブルガリア帝国」の解説の一部です。
「異端の教義」を含む「第二次ブルガリア帝国」の記事については、「第二次ブルガリア帝国」の概要を参照ください。

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