異端の思想としてのゲーム理論
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「ゲーム理論」の記事における「異端の思想としてのゲーム理論」の解説
ゲーム理論が登場・普及する以前に「主流派」とか「正統派」と呼ばれる位置を占めていた新古典派経済学はゲーム理論と比較して次の2つの理論的特徴を有した。 (1)合理性の仮定 経済主体は首尾一貫した行動基準の下で合理的に行動する。 (2)プライステイカーの仮定 完全競争的な市場において、需要と供給が一致するように価格が決定される。 経済学において合理性とは完備性(英: completeness)と推移性(英: transitivity)が同時に満たされることを意味しており、合理的な経済主体の行動は制約付き最適化問題として数学的に定式化することができる。プライステイカーの仮定は経済主体の選択が市場価格に一切の影響を与えないことを意味しており、意思決定の戦略的側面や価格決定のプロセスそのものを捨象している。これらの方法論はポール・サミュエルソン(1970年ノーベル賞受賞者)の主著『経済分析の基礎』によって体系化されるものであるが、これによって本来複雑極まりないはずの経済主体間の相互依存関係が「一定とされる市場価格」を媒介として各個人にとって個別の最適化問題に帰着することが可能となる。 経済主体同士の対面における戦略的利己的行動や具体的な経済主体が影響力を発揮する市場プロセスを重視していたオーストリア学派は上記の2つめの特徴をもつ新古典派経済学を早い段階から批判しており、このオーストリア学派の系譜からゲーム理論が誕生した。ゲーム理論は1980年以前は学界からも「異端の思想」として捉えられており、当時のゲーム理論の処遇や位置付けについて鈴木光男は1970年に公刊された編著書『競争社会のゲーム理論』の「はしがき」で次のように語っている。 ゲームの理論は異端の思想である。小麦を肩にかついで市場に現れ、神の見えざる手に導かれて予定の調和に達するという思想とは対立する基盤から生まれた。異端は常に覚めて地獄を見る。人間の理性を神の御心に従って調和に達するものとは見ない。理性は常に対立を生み、競争を生み、その結果として結託を生み、それらの克服としてのみ調和がありうると見る。克服なきとき、そこには抜き差しならぬ対立は依然として存在し、それに目をそらすことはしない。そして、その克服がいかに困難なことであるかを示している。人はしばしば合理的とか最適とかいう。合理的とか最適とかいう言葉は現代の呪文である。しからば合理的とか最適とかいうのは一体何であろうか。社会的行動における合理的なるものの意味を鋭く追及したのもゲームの理論である。異端は常に覚めて地獄を見なければならないのである。 — 鈴木光男『競争社会のゲーム理論』、1970年 また、2005年にノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングは、受賞の際に選考委員会から The "errant economist" (as Schelling has called himself) turned out to be a pre-eminent pathfinder. と紹介された。シェリングが errant economist を自称したのは当時支配的であった正統派経済学の道を歩まず異端派としての遍歴を重ねた実感からであり、同時にこれはシェリングのみならず多くの初期のゲーム理論家に共通する感情であった。 異端派と新古典派のパラダイムの対照 前提条件異端派経済学新古典派経済学 認識論現実主義 道具主義 合理性手続き的合理性 独立的合理性 存在論有機体論 方法論的個人主義 政治的中心国家の介入 自由競争市場 分析の焦点生産と成長 交換と希少性 なお、現在「異端派経済学」と言えば、制度派経済学やカール・マルクスの影響を受けて成立したポスト・ケインズ派、レギュラシオン学派、ラディカル派、マルクス派などといった新古典派経済学に対する反対勢力を指すが、彼らはニューケインジアンなどの新古典派に対して「異端派」を自称しており、現実主義、手続き的合理性、有機体論、国家による市場介入の支持、生産と成長への関心といった特徴を持つと主張している(右に掲載された表を参照)。 第1の前提条件である「認識論」に関して、現実主義 とは、現実世界を正しく記述することを理論の目的とみなす異端派の立場である。他方、道具主義とは、理論を正確な予測や計算といった分析の道具とみなし、その目的以上に仮説が現実的である必要はないとする新古典派の立場である。これらの点について、ゲーム理論は理論分析の道具として近代経済学に応用されるだけではなく、比較歴史制度分析などの一部の制度経済学において特定の時代・地域の制度や体制を精密に描写するための手法としても用いられている。また、1990年代にゲーム理論の応用分野として誕生したマーケットデザインは具体的な個別の各問題を分析・解決することを目的とした「オーダーメイド」の理論を構築することを志向している。 第2の前提条件である「合理性」に関して、新古典派は経済主体が所与の制約の中で最適な選択をするという強い仮定を課しているのに対して、異端派はハーバート・サイモンによって提唱された限定的で制限された合理性を採用している。ゲーム理論は成立当初は新古典派の合理性の仮定を踏襲していたが、1980年代から1990年代にかけて合理性を前提としないアプローチをも採用することとなった。合理性を限定したゲーム理論の研究アプローチについては後述の「#限定合理性アプローチ」の節を参照。 第3の前提条件である「存在論」の「方法論的個人主義」とは、新古典派においてプライステイカーの仮定として定式化されていたものであり、彼らの想定する経済主体は他者からの影響を受けることなく制約付き最適化行動をとる。他方、異端派が採用する有機体論において、個人は社会的存在とみなされ、マルクス経済学者によって強調されるように、文化や社会階層などを含む環境に影響される。これらに対して、ゲーム理論は方法論的個人主義がその基礎にあるものの、他者との関係性によって個人が成立しているというオーストリア学派の人間像が反映されており、個人間の有機体的な相互依存関係を重視している。 第4の前提条件である「政治的中心」は追加的な項目である。新古典派の仮定の下では「パレート非効率的な状態では(非効率性の定義より)全員の満足度を高めるような別の状態が必ず存在するから、当事者が合理的であれば全員に取ってより良い状態へ移行するはずである。したがって、合理的な個人の自由に任せておけば結果は必ず効率的になる。」という素朴な自由放任主義思想が成り立ち、実際にこうした考え方は新古典派経済学者の間で一時は大きな影響力を持っていた。彼らは短期的には何らかの不完全性や外部性が存在し、国家の介入が必要であることを認めているものの、長期的にはそれらに起因する非効率性が市場メカニズムによって解消されると信じていたのである。他方、異端派は新古典派が採用した独立的合理性やパレート効率性に対してそもそも懐疑的であったため、国家による市場領域への介入の必要性を強く訴えていた。これらに対してゲーム理論は、「囚人のジレンマ」に代表されるような各個人が合理的であったとしても政府が介入しなければ効率的な配分が実現しない場合が存在することが明らかにし、政府が制度設計によって人々に適切なインセンティブを提供する主張した。 第5の前提条件である「分析の焦点」に関して、新古典派は希少な財がいかに配分されるか、という問題に関心を持っていた。他方、異端派はアダム・スミスやカール・マルクスといった限界革命以前の古典派経済学者のように富と生産を拡大することに貢献する必要資源をつくることに基本的関心を持っている。両学派が分析の対象を交換や生産といった狭義の経済に限定しているのに対して、ゲーム理論は市場や生産といった狭義の経済のみならずさまざまな分野に応用されている。その広範な分析対象については後述の「#応用分野」の節を参照。
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