異端と教皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)
「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「異端と教皇」の解説
「異端審問」および「魔女狩り」を参照 12世紀のフランスに成立したワルドー派やカタリ派(清純派)も俗人の贖罪と清貧を唱えて、カタリ派はロアール川以南フランス、ワルドー派はリヨン、ロンバルディア、ドイツ、スペイン、ボヘミアまで広がった。ワルドー派もカタリ派も聖書に典拠がない地獄や煉獄を否定し、福音宣布の自由を説き、教会組織を否定した。ワルドー派は1184年に教皇ルキウス3世によって異端と断罪され、宗教改革以後はプロテスタントを称した。12世紀後半にはブレッシアのアルノルドが清貧を説き、教皇権と富を批判したため、処刑された。カタリ派も教皇から異端とされ、1209年からアルビジョア十字軍が派遣して殲滅された。ほか1230年頃にはロンバルディアで大ハレルヤ運動が発生し、町をねり歩いて悔い改めと平和を求めて、利殖や奢侈に反対し、負債者の釈放や、異端狩りに熱中した。 こうした異端の蔓延は、聖地エルサレムをイスラム教から奪還する1096年から1272年までの十字軍によって刺激された異常な興奮状態が理由とされる。 教皇リキウス3世は皇帝フリードリヒ1世とともに異端審問令を出して、イノセント3世が1215年に整備し、審問官に人々に異端告発の義務を課する権利を認め、皇帝への大逆罪にならって犯人は極刑とされた。1231年にグレゴリー9世は教皇直属の異端審問官を任命した。裁判は非公開で、密告制であり、被告は弁護人をつけることを許されず、拷問による自白を強要された。しかし、異端裁判が過激になり封建諸侯さえ弾劾されるようになったり、またドミニコ会やフランシスコ会による審問官独占などへの反感から、反教皇権運動の教会会議中心主義運動のいとぐちがうまれていった。有名な審問官としてドイツのコンラート・フォン・マールブルクがいて、1231年に大審問官となると超人的な異端狩りを初めて、「弟は兄を、妻は夫を、召使は主人を、また各々はその逆を訴えた」といわれるほどに密告制度を奨励した。 また同時に魔女狩りもはじまり、のちの15世紀末になると、1484年に教皇インノケンチウス8世が魔女の存在を断定し、ドミニコ会士でドイツの異端審問官による『魔女に与える鉄槌』によって本格的な魔女狩りがはじまり、フランスやドイツで11万人が裁判にかけられ,4万~6万人が処刑された。
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