ユダヤ教から見たキリスト教
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「キリスト教とユダヤ教」の記事における「ユダヤ教から見たキリスト教」の解説
詳細は「en:Judaism's view of Jesus」を参照 ユダヤ人の多くはイエスを、大勢いる自称メシア(偽メシア)のうちの1人にすぎないと考えている。モーセの律法に定められた預言者の試練を成し遂げた者はまだ誰もいないと考えている。そうでない者は、イエスは非ユダヤ人と働いたラビでありメシア的な存在ではあったものの、本人より後の時代の追従者によってゆがめられたのだと見なしている。イエスとその支持者の名においてユダヤ人の心身に対し数多くの暴力が振るわれ[要出典]、多くの教会の活動でいまだ福音主義がはびこっているため、多くのユダヤ人はイエスについて討論することにも不快を感じ、彼をイェシュと呼び価値ある人物としては扱わない。「ユダヤ人はイエスについてどう考えるか」という質問に対する答えとして、哲学者ミルトン・スタインバーグは、ユダヤ人にとってイエスはラビ以上の何ものでもないと主張している。「ほんの数点でイエスは伝統を踏み外した」とスタインバーグは結論付けている。「そのほんの数点で、彼は失敗したのだとユダヤ人は考えている。」 律法の研究書である『タルムード』では、イエスは断片的に批判的言及がなされている。イエスの生涯を逐一追ったものではないが、イエスが私生児であり、ダビデの家系ではあり得ないこと。イエスがラビの教えに背き破門されたこと。イエスが弟子達と淫らな関係にあったこと。ユダヤ教のラビ達は、ローマ法に拠ることなく(ポンテオ・ピラトに死刑を要求したのではなく)、ユダヤの律法に則って異端者であるイエスを石打の刑に処し、遺体を木に晒したこと。イエスは沸騰する糞便の中で永遠に座らせられる(『マタイによる福音書』のイエスとファリサイ派の手洗いの論争を踏まえた説話)ことなどを説いている。 これとは別に、イエスの生涯を批判的に再構成した『トルドート・イェシュ(イエス伝)』も流布した。原型となる説話は2世紀までに作られた。様々な異本が存在し、ポンテオ・ピラトとヘロデが登場するものと、女王ヘレナ(ヘレネ)がパレスチナを治めているという設定の物に大別される。9世紀以降に「ユダヤ教の迷信」としてキリスト教側に認識されるようになった。さらに、13世紀にライムンドゥス・マルティニ『信仰の短剣』で大々的に糾弾され、キリスト教徒によるユダヤ教徒迫害の大義名分として利用されるようになった。このため、ユダヤ教の指導者は、むしろはた迷惑な民間伝承として批判する者も多かった。 ユダヤ教では、神はどの人間にも犠牲を要求することはないと信じている。この点は、アケダーすなわちイサクの燔祭の物語についてのユダヤの伝統で強調されている。ユダヤ人の解釈では、トーラーのアケダーは、神がアブラハムの信仰と意志に試練を与えた物語であり、イサクは実際には生贄として捧げられる予定ではなかったという。このようにユダヤ教は、誰かが、他の誰かの罪のために死ねる、あるいは死ななくてはならないという概念を拒絶する。ユダヤ教は、神の意志に従って、この世でどう生きて人生を神聖なものとするべきか、学ぶという現実性に焦点を当てており、来世への希望については重視していない。ユダヤ教はキリスト教と違って、天国(ガンエデン)と同様、来世で罰を受けるという場所(ゲヘナ、地獄)の概念を信じてもいないし、それを焦点にもしていない。 ユダヤ教は、イエス崇拝の本質は多神教的なものと見なし、キリスト教が一神教の複雑な形とする三位一体の説明を拒絶する[要出典]。キリスト教の祝日は、ユダヤ教にとっては宗教的重要性をもたず、それを祝うこともない。しかし西側の世俗的なユダヤ人の一部には、クリスマスを単なる休日と見なす者もいる。
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