ユダヤ教での罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 14:37 UTC 版)
ユダヤ教では、神聖な戒律を破ることが罪とみなされている。ユダヤ教では、行為そのものが罪であると教えており、罪は状態ではないと説いている。あらゆる人間は悪行をする傾向性を持って創られたわけではないが、昔からその傾向性は持っているとされている。(創世記参照。)人間は、その傾向性を飼いならす能力を持っており、あえて悪を退け善を選択したとしている(=良心)。ユダヤ教は、「罪」という言葉にユダヤ法(ハラーハー)に背くという意味を込めており、必ずしも道徳概念の乱れや逸脱を意味するということではない。ユダヤ教百科事典によると、「人は、自由な意志を授かったからには、自分のおかした罪に対する責任を負うことになる。しかしながら、生まれながらにして人は意志薄弱であり、精神の傾向性は悪に傾いている。『昔から人間の心は悪性であったという想像のために』(Gen. viii. 21; Yoma 20a; Sanh. 105a)神はそのご慈悲によって、人々に懺悔や容赦することを許している。」ユダヤ教では、全ての人は人生の様々な岐路において罪をおかすことがあり、神は慈悲により正義を量っていると考えられている。 ヘブライ聖書 (Hebrew Bible) の節に基づくと、ユダヤ教には3種類の罪があると説かれており、罪をおかした者は、3つのカテゴリーに分けられるとされている。1つ目のカテゴリーは、意図的に罪をおかした者で、最も罪が重いカテゴリーとされている。2つ目は、誤って罪をおかした者で、おかした罪に責任はあるものの、1つ目のカテゴリーに比べるとまだ軽い罪と捉えられている。3つ目は、ユダヤ教ではない者や、非ユダヤ教の環境に育った者で、ユダヤ法というものの存在意識がない者とされている。この3つ目のカテゴリーに属する者は、自分の行為を罪として考慮できないと考えられている。 ペシャ/メレッド - 意図的におかされた罪。慎重に神を冒涜するためにおかされた行為。反乱・違反・不正などを意味する語に由来する。 アヴォン - 性欲や制御不能な感情によっておかされた罪。意識的におかされるが、神を冒涜するためにおかされたものではないもの。邪悪や過ち・非道・害などの倫理的な悪を意味する語に由来する。 ヘット - 意図のない罪、犯罪、もしくは過ち。失敗、逸脱、犯罪、過失などを意味する語に由来する。 (以上、ストロングの用語索引 (Strong's Concordance) による。) ユダヤ教では、人間は不完全であり、全ての人間は何度も罪をおかしたことがあると考えられている。しかしながら、いくつかの罪は(アヴォンやヘット)は非難の対象には当たらないとされており、ほんの1、2回おかした嘆かわしい罪のみが、一般的な地獄の概念に近いものにつながっていくとされている。聖書やラビ狭義での神は、慈悲によって正義を量る創造者であるが、タルムードにみられるラビ・タムの視点によると、神の慈悲には13の特質があるとされている。 神は、人が罪をおかしうると知りながら、罪をおかす者にたいして慈悲深くある。 神は、人が罪をおかした後も、罪をおかした者にたいして慈悲深くある。 神は、人間が期待もふさわしいと思いもしない場面でさえも慈悲深くあることができる力を発揮する。 神は、思いやりが深く、罪悪感という罰を和らげる。 神は、慈悲や恩恵に値しないものに対しても恵み深くある。 神は、怒りに遠く、気が長くある。 神は、親切心に溢れている。 神は、真実の神であり、よって我らは後悔を示す罪人を許すという神の約束に身を任せることができる。 神は、正しいイスラエル民族の祖先(アブラハム、イサク、ヤコブ)がその全ての祖先に恩恵を施したことから、未来の世代への親切心を保障している。 神は、罪人が罪を悔い改めるのであれば、意図的な罪も許す。(人様に悔い改め、悔い改めと説きながら、自らを悔い改める。あるいは懺悔する聖職者と呼ばれる人など見た事がない。意図的な罪は意図的な罪を返されるべきだ) 神は、罪人が罪を悔い改めるのであれば、彼自身の落ち着いた怒りをも許す。 神は、誤っておかされた罪は許す。 神は、悔い改める者からは、その罪を拭い去る。 ユダヤ人は、自身に存在するイミタチオ・デイ (imitatio Dei) という神と同じような善を行うことができる精神に従うことができるとされているため、ラビ達はこれらの特質を考慮にいれ、ユダヤ法と現代におけるその適応の仕方を決めている。 古典的なラビの文学作品であるミドラーシュのラビ・ナタンによる賢人達(意訳。英記:Avot de Rabbi Natan、英訳:(The) Fathers According to Rabbi Nathan)では以下のことが書かれている: 「 ある時、ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイがラビ・ヨシュア (Rabbi Yehoshua) と共にエルサレムを歩いていた時、今は無きエルサレム神殿に辿り着いた。「ああ、我々に災いあれ。」ラビ・ヨシュアは嘆いた。「イスラエルの罪をあがなう為に作られたこの家が今や廃墟となって横たわっているとは!」ラバン・ヨハナンは答えた。「我々には、もう一つ、同じく大事なあがないの源がある。ゲミルット・ハサディム(愛のある親切心)の実践だ。『我は、犠牲ではなく、愛のある親切心を欲する』と記されているように。 」 タルムードでは、『ラビ・ヨハナンとラビ・エレアザルは共に、神殿が存在していた頃は、祭壇はイスラエルの罪をあがなっていたが、今は、食卓が(あわれな者が客人として招かれたときに)罪をあがなう、と説明している。』と説いている。(Tractate Berachot, 55a) 「畏敬の日々」(ローシュ・ハシャーナーやヨム・キプルなどの大きな祝祭日)のでは、祈り、懺悔、慈善行為などは、罪をあがなうための道であると記している。ユダヤ教では、まず初めに(神や心に対してではなく)人々に対しておかされた罪をその人の最善まで正されなければならないとしており、最善の状態にまで正されなかった罪は真の意味では、悔い改められた罪とは言えないとしている。
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