ユダヤ教とイエス
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「原始キリスト教」、「イエス・キリスト」、「救世主イエス・キリスト」、および「ナザレのイエス」も参照 キリスト教が誕生するより以前、イタリア半島から勢力を拡大したローマは、地中海世界全域を支配する帝国を打ち立てた。ユダヤ人の故地パレスチナは、西暦1世紀までにはこのローマの支配地の一部となっていた。ユダヤ教の指導層の堕落に危機感を覚えた洗礼者ヨハネが洗礼運動を開始すると、ガリラヤ地方出身のイエスもその運動に共感する者の一人となった。ヨハネが捕縛された後、イエスはユダヤ人達に対して自らの宣教を開始した。 イエスの運動は、その当時においてはユダヤ教の改革運動として始まった。イエスは厳格なユダヤ教徒として安息日には定期的にシナゴーグへ行き、ユダヤの祝祭を祝い、戒律を守った。彼は当時古臭い規則となりつつあった戒律を立て直そうとし、そのために神を愛し、神に奉仕することを強調した。ただし、トロクメはイエスをユダヤ教改革者とみなすことを批判している。 イエスの言葉は次第に人々を惹きつけ、彼による各種の奇跡が信じられるようになった。イエスはまた、自らの教えに従う共同体も創設した。イエスの周囲には彼を慕う弟子達による集団が形成され、ある種の組織化、階層化が行われたと見られる。 イエス・キリスト思想において根本をなすのは福音である。福音とは「良い知らせ」と言う意味で、具体的には「神の国」が近づいているという知らせである。イエスによれば、「神の国」が来ると、既存の社会秩序とは全く異なった新しい秩序がはじまる。神の国が近づいているので、罪を悔い改めて神に従う生活の準備をしなければならない。これはユダヤ教の終末論を引き継いだものであったが、イエスはユダヤ人の民族的解放にとどまらなかった。イエスは悩み苦しむものは義のために責められるのであり、現世でもっとも悪い状態にある者が来世においてもっとも良い状態になると述べる。 イエスは民族宗教から普遍宗教へ変化させ、宗教を政治的国家と完全に離した。ここに個人があらわれ、また人間の内面は世界より尊重されるようになる。政治的支配についてイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と述べている。こうしてキリスト教では政治社会が特定の宗教とむすびつき、その宗教が政治社会の精神的統一を保障することが否定され、地上的なものと精神的なものが分離される。イエスの神の国は神の霊にむすばれた愛の共同体であり、目に見えない「霊の国」である。イエスは「我が国はこの世のものならず」という。そしてメシアは「人に仕えられんためにあらず、かえって人に仕えんために」来る。イエスの信徒は「われらの国籍は天にあり」と現世よりも来世が重視された。これは現世を無意味とするものではなく、「神の国」にはいるためには現世での行い、悔い改めること、神の国への準備が重要であると説く。またイエスの思想では、人間の外面と内面が区別され、政治社会と倫理が区別された。イエスは神の国を脱政治化して、その意味で非政治的であるが、むしろそれゆに現実の政治社会に影響を与えた。殉教者ユスティノスによれば、キリストは「あたらしい立法者」であり、新たな形の共同社会を創造した人物であった。。
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