イエスの信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 18:06 UTC 版)
「ガラテヤの信徒への手紙」の記事における「イエスの信」の解説
『ガラテヤ書』2章16節から4章31節において、パウロはユダヤ人の伝統的宗教行為とキリスト教徒の信仰、すなわち「律法の行いに拠る」義と「イエス・キリスト(へ)の信に拠る」(ディア・ピステオース・イエースゥ・クリストゥ)義を対立させて論じる(2:16)。ギリシア語「ピステオース(主格:ピスティス)・イエースゥ」は、文法上、イエスに対する信(目的的属格)と、イエスの持っていた信(所有的属格)の二つの解釈の可能性をもつ。 伝統的に、西方キリスト教では(特にプロテスタントでは)この句を前者に解し、キリスト・イエスに対する信者の信が、信者を神と和解させ救済へ導くとするが、正教会には、この句を後者に解し、神人二性をもつイエスの人性において、その生涯全体に現れている神への信が、全人類の救いの根拠であるとする解釈がある。後者の解釈においては、その完き人間性において完き信を体現するイエスに、信者は洗礼を経て恩寵のうちに神秘的に体合し(5:27、また4:19-20を参照)、義とされ、救済されるとする。 なお1983年にリチャード・B・ヘイズ(英語版)がこの問題に関する論文を発表して以降は西方の研究者の間でも、この箇所の解釈として、後者と同様の所有的属格としての読みが強く支持されるようになった。日本では聖書学者の佐藤研、太田修司や田川建三、哲学史家の清水哲郎などが所有的属格としての解釈を取っている。
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