イエスの伝承の視点から見た神話論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:28 UTC 版)
「トマスによる福音書」の記事における「イエスの伝承の視点から見た神話論」の解説
この福音書は、グノーシス主義的な神話というものがはっきりわからない状況にある。三世紀初頭以降トマス福音書は、初期カトリシズムの教父により、異端者たちの偽作であるとして、正典から排除されたとされている。トマス福音書と同時に発見された文書には、ギリシャ哲学のプラトンの著作もあったことから、グノーシス派は、ギリシャ哲学や、オリエントの諸宗教とも関連があったとされている。そのため、神話論のはっきりしない文書は、客観的思考を重視していた異教としての、ギリシャ哲学や、オリエントの諸宗教と関連づけすることも可能となっている。 ナザレのイエスの説いた教えは、正統的教会によって、おおむね下記のように教義化した。 イエスキリストは、処女マリアから生まれた神の一人息子であると信じる。 イエスを救い主と信じる人は、神の国が到来したら、新しい命がもらえて罪から救われる。なぜなら、罪がないナザレのイエスは、死刑になったが、死んでから三日たってからまた生き返った。そして彼は天に昇って行って、神の右に座ったからである。そう信じる者は、救われる・・・・。 トマス福音書は、グノーシス主義の編集者によってまとめられたイエスの語録、という性質を持っているので、神話論についての言及はほとんどない。そのため、神話論を確認するにあたっては、編集者の視点で確認するか、それとも、その視点が導入される以前の、イエスの伝承の視点で解釈するかによって、神話の内容が大きく異なってくるとされる。。この福音書の後に成立したとされる『闘技者トマスの書』がグノーシス文書というよりは、正統的教会の修道僧のためにまとめられたものであるとされているので、本書も、イエスの伝承の視点で神話を解釈してゆくことができるようである。 。神話という面から見ると、この福音書は、『闘技者トマスの書』と類似した著作であると見ることが出来る。 訳者の解説には、7点の神話論の痕跡があると述べられている。 1、天地は消え去る。(11、この天は過ぎ去るであろう。そして、その上も過ぎ去るであろう。) 2、父なる神のほかに、真実の「聖霊」が「命」の根源として想定されている。(101、しかし、私の真実の聖霊は私に命を与えた。) 3、神々は消極的に評価されている。(100、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に渡しなさい。そして、私のものは私に渡しなさい。) 4、イエスは父なる神から出た者であり、すべての上にある光である。(61、私は同じ者から出たものである。私には父のものが与えられている。)(77、私は彼らすべての上にある光である。) 5、人間は「光から来た」「光の子ら」であるが、、現実には「身体」のなかにあって、それ(「光」あるいは「霊魂」としての本来的自己)を認識していない。(29、いかにしてこの大いなる富(本来的自己)がこの貧困(身体と霊)の中に住んだのかを不思議に思う)。 6、「自己」を認識したものにとって、「自己」の支配領域として、「父の国」は現臨している。(3、王国はあなたがたの直中にある。) 7、 はじめのあるところに終わりがある。
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