イエスとヨハネ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 00:45 UTC 版)
荒井献は、イエスの生涯において、ガリラヤでの宣教に先だつ時期にバプテスマのヨハネのグループで活動していたことを重視し、2人の行動上における相違点を整理して次の3点が際だった違いであると指摘している。 荒井の主張によると、ヨハネのグループは、「悔い改め」にふさわしい生活形態として世俗から隔絶した一種の禁欲生活共同体を形成し、ヨハネ自身はラクダの毛衣(けごろも)を着てイナゴと野蜜を食べて「荒野」での洗礼活動をおこなっていたが、イエスはむしろ世俗世界に入ってきわめて自由にふるまい、人びとには洗礼をさずけず、断食も勧めなかった。しかし、『ヨハネ福音書』には、「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた」とする記載がある。また、『マタイ福音書』には、イエスが祈りと共に断食の必要性を認めたり、それをする時は人に見せびらかさずに慎ましくするよう説く記載はある。当時の人たちはそういったイエスのことを「〈大飯くらいで大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ〉と非難」したほどだった、と荒井は指摘する。また、イエスは結婚を否定しなかった。八木誠一は、イエスは決して禁欲主義ではなかった、と主張する。 ヨハネが「神の国」の接近にもとづいて人びとに「悔い改め」を迫ったのに対し、イエスは「神の国」がすでに実現されつつつあると人びとに告知し、人びとがみずから、あえて社会的・民族的・経済的、場合によっては倫理的にさえも「弱き者」の位置に立とうとするときに立ち現れるものとして「神の国」を説いた[要出典]。 イエスにのみ多くの奇跡的な逸話が伝承されている。これについて荒井は、イエスには実際に病気を治癒する能力があったのかもしれないと指摘している。ただしそれが、当時の「奇跡物語」という文学形式のなかで高められ、「キリスト(メシア)」あるいは「神の御子」と見なされるべき超人的な力として「宣教のキリスト」に利用されたことも確かな事実である、としている。 八木と荒井の両名は、イエス当時のユダヤの支配者とりわけ政治的・宗教的なエリートであったサドカイ派やファリサイ派の人びとは、かれらの生活の価値基準を、かれらが神より授けられたと信ずる律法(「伝達のことば」)に置いていたのであり、かれらによれば、人が神の意志を知ることができるのは律法によってのみであって、したがって、律法を守って倫理的に清く正しい生活をしてきた人びとこそが、終末の際、その功績によって「神の国」に入れられ、律法を守らない者は「神の国」から閉め出されると堅く信じていた 、とする。荒井によると、しかし、ヨハネは、過去において律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは、貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを差別し、穢らわしいものとして蔑む心のありようそのものを「罪」と考えたのであり、過去の基準にではなく将来の基準にこそ転換すべきことを主張した。そして、「神の国」が近づいたことを基準にするのであれば、律法を守りえる者も守りえない者も、よもや同一の地平に立たざるをえないことを訴えた、とする。これによりヨハネは、従来の価値基準を転換する「回心」としての「悔い改め」を説き、「荒野での洗礼活動」をはじめたのであった[要出典]。 荒井は「神の国」の真の到来は、律法を遵守して生活してきたという過去を誇る者がむしろ神による審判の対象となり、律法を守ろうとしても守りえない者がかえって神による救いの対象となりうるという逆説を生じせしめるのであり、ヨハネはそこにこそ「悔い改め」が求められ、また、それにふさわしい倫理的・禁欲的な生活上の実践が求められているとする。こうしたヨハネの思想に共鳴し、かれの洗礼活動に参加した人びとのなかにイエスやペトロがいた。そしてイエスは、「悔い改め」の思想をいっそう徹底することによってヨハネの禁欲主義的傾向から脱却していく。ヨハネ思想の批判的継承者となったイエスは、こうしてヨハネの教団を離れ、ガリラヤへの宣教へおもむいた[要出典]。 「貧しき者は幸いである」、「取税人や遊女は汝らよりも先に神の国に入る」などの福音(イエスのことば)に示されるように、イエスは、人間がみずからの民族的・社会的・経済的・倫理的な有能感に立ち、自己を中心に他者の価値を審断しようという心持ちを批判し、人がそうした態度を捨てて、神への信仰によってむしろ自己を相対化し、自身をあえて弱者の側に立つと決意するならば、そこに「神の国」は実現されつつある、と荒井は唱えた。 そして、荒井によると、イエスは当時政治的・宗教的指導者によって「罪人」ないしは「アム・ハ・アレツ」(「地の民」)として蔑まれ、不浄視され、法によって交わることを禁じられていた身体障害者や病人、とりわけ重い皮膚病患者や精神病患者と法を犯しても親交をむすび、みずからこうした弱者、被差別者たちの一員となることによって傷害や病気を癒そうとした、とする。イエスの生涯に多くの奇跡物語の伝承がともなっているのは、まさに、このためであろう、と荒井は考えるのである。
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