イエスがたとえ話を用いる理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 07:02 UTC 版)
「イエス・キリストのたとえ話」の記事における「イエスがたとえ話を用いる理由」の解説
イエス・キリストはたとえで話す理由については以下のように述べて、理解できる人と理解できない人がいる事を示した。 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬 (たとえ) でお話しになるのですか」。 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。 — マタイによる福音書13章10節から16節(口語訳) 弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。 — ルカによる福音書8章9節から10節(口語訳) イエスは、神の国について人々の聞く能力に応じてわかりやすく教えることを目的としてたとえ話を用いている。 イエスのたとえ話は光と影、啓示と秘密、惠みと裁きの意味を同時に含んでいる。律法学者やファリサイ派の人々からイエスの伝道活動を妨げられることが予想された。そのためイエスは彼らの前では、たとえ話の奥義を語ることを好まず、こっそりと弟子たちだけにその意味することを解説した。 惠みと裁きが同時に現われることは「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」<ルカ 8:18>ということばで語られている。 マタイによる福音書<21:33>でイエスはたとえ話を用いて当時の祭司長たちやパリサイ人たちに自分たちの裁きについて自分の口から言わせている。
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