イエスの受けた洗礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 14:55 UTC 版)
ルカの中ではイエスは単に群集の一人としてヨハネのもとにいき、ヨハネかあるいはその代理の人から洗礼を受ける。マタイとマルコではイエスはヨハネのもとに直接おもむき、ヨハネ本人から洗礼を受ける。マタイ福音書ではヨハネに対してイエスが語る言葉がイエスの最初の言葉になる。伝統的にマタイは新約聖書冒頭に置かれていたため、このイエスの言葉が新約聖書で最初のイエスの言葉となってきた。このことから聖書学者たちはこのイエスの「第一声」を重要なものとみなし、熱心に研究してきた。マタイの中で、イエスは「ヨハネから洗礼を受けるのが正しいこと」だという。これはなぜイエスがわざわざ洗礼を受ける必要があったのかということを説明するために後から付加された言葉だと考えられている。 「正しいこと」というのはマタイの中では重要な概念であり、「神に従うこと」と同義である。マタイは同時に予言が「成就した」という言い方をするが、イエスが正しいことを行うことこそが神の意思の成就であるという位置づけをしているといえる。 またヨハネが罪のきよめのしるしとして行っていた洗礼をなぜ罪のないイエスが受けたのかという疑問に対しては伝統的に次のような答えが与えられてきた。 第一はイエスが、人間にとって洗礼がいかに大切なものであるかを示すために受けたというもの。第二はイエスは全人類の罪をあがなうという大きなプロセスの一部として洗礼を受けたというもの。 それ以外にもキリスト理解の差によってさまざまなキリスト教派において異なる捉え方がされている。マルコやルカと異なり、マタイはイエスがすぐに水からあがったことを強調する。ロバート・ガンドリー(Robert H.Gundry)は著作の中で、ヨハネの洗礼ではそのあと、川の中で罪の告白をするという流れになっていたが、イエスは罪を犯していないため、すぐに川からあがったということが強調されているのだと解説している。 キリスト教のほとんどの教派ではイエスの洗礼が大切な出来事としてとらえられているが、イエスの洗礼になんら意味を認めないグループもある。たとえば中世のボゴミル派では洗礼者ヨハネは悪の手先であったと考え、その洗礼も被造物の穢れをイエスに及ぼそうとする邪悪な試みだったとみなしていた。このような考え方は珍しいものだが、キリスト教の多くの教派の洗礼の儀式で、ヨハネのように川で行う洗礼のやり方を採用せず、マタイ28章のくだりや『使徒行伝』にあらわれるような洗礼の儀式を形式として用いていることは興味深い。というのもキリスト教のグループの中には再洗礼派のようにイエスが受けた洗礼のやり方を忠実に守るべきだと考えるものもあるのだ。またこのようなグループではイエスが30歳で洗礼を受けた故事から幼児洗礼をも否定している。
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