ロシアファシスト党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/17 13:04 UTC 版)
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ロシアファシスト党 Российская фашистская партия Russian Fascist Party | |
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党首 | コンスタンチン・ロジャエフスキー |
成立年月日 | 1931年 |
解散年月日 | 1945年 |
解散理由 | 日本の降伏 |
後継政党 | 無し |
本部所在地 | ハルピン |
党員・党友数 |
2万人 |
政治的思想・立場 |
ファシズム 反共 反ユダヤ主義 |
ロシアファシスト党(ロシアファシストとう、露: Российская фашистская партия、英: Russian Fascist Party)または汎ロシアファシスト党は、1931年から1945年の間満洲国に存在した、白系ロシア人によるファシズム政党。
沿革

前列左から二人目がロジャエフスキー。ハルピン特務機関で活動していた秋草俊も出席している。
元々満洲はロシア帝国の勢力圏であり、拠点としてハルビンは開発され、ユダヤ人が多く集まり一部は成功した。しかしロシア革命後逃れてきた白軍関係者などが大量に流入してきた。白系ロシア人の青年層は失業率が高くユダヤ人コミュニティを目の敵にし複数のファシスト集団を結成した。1931年にはコンスタンチン・ロジャエフスキーがこれらを統合したロシアファシスト党をハルビンで結成する。
満洲国建国後、当局に協力しソビエト連邦打倒を目指した。反ユダヤ感情を高め党員たちは身代金目的のユダヤ人の誘拐事件を繰り返し特にホテル経営者の息子のピアニストシモン・カスペの誘拐殺人事件は被害者がフランス国籍だったこともあって国際的に非難された。政府は問題視していたが陸軍は黙認していたもののユダヤ人コミュニティが積極的に日本に協力しだしたため次第に規制されるようになる。
関東軍の庇護の下で極東各地で党活動をしていたが、1934年アメリカやヨーロッパ・アジア各地で活動していたアナスタシー・ヴォンシャツキーのロシア民族労働党と合同した。その後、路線の相違から、1935年ヴォンシャツキーは汎ロシア革命国民党を結成して離脱し、ロシアファシスト党はロジャエフスキーの下で活動を続けたが戦局が日本の不利になるにつれ力を失っていく。
1945年、ソ連軍の満洲国侵攻(ソ連対日参戦)により消滅し、指導者のロジャエフスキーは翌1946年に処刑された。
日本
1934年3月時点で、既に東京に支部があり、メンバーは200人ほどであったとされる[1]。
党歌
党は、ロシア国民を目覚めさせ、ВФПの団結を導く、大聖堂行進曲の調子で行われる[4]、党歌を持っていた[5]:
原文 | 日本語訳 |
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Поднимайтесь братья, с нами, Знамя Русское шумит, Над горами, над долами Правда Русская летит. |
立てよ、兄弟、我らと共に ロシアの旗はブン回る 山を越えて、谷を越えて 真のロシアは飛翔する |
С нами те, кто верит в Бога, С нами Русская земля, Мы пробьём себе дорогу К стенам древнего Кремля. |
我らと共に、神を信頼する者よ、 我らロシアの地と共に 我らは達する、自身の方法で 古代クレムリンの城壁に |
Крепче бей, наш Русский молот, И рази, как Божий гром… Пусть падёт во прах расколот, Сатанинский совнарком. |
強く打つ、我らロシアのハンマーが、 そして打ち破る、神の雷のように… 塵埃の拡散者を共に落とそう、 極悪非道の人民委員会議を |
Поднимайтесь братья, с нами, Знамя Русское шумит, Над горами, над долами Правда Русская летит. |
立てよ、兄弟、我らと共に ロシアの旗はブン回る 山を越えて、谷を越えて 真のロシアは飛翔する |
脚注
- ^ 北欧の風雲狙い神戸に堅い握手 在日白系露人結成の使命 おびて来た白の巨星 神戸又新日報 1934年3月23日
- ^ 『国民思想善導教化及団体関係雑件 第一巻 8.露西亜ファシスト党日本代表出演ノ皇化連盟主催演説会状況関係』「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013004000、国民思想善導教化及団体関係雑件 第一巻(I-4-5-1-8_001)(外務省外交史料館)」
- ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04012302800、各国展覧会関係雑件 第一巻(I-1-6-4-6_001)(外務省外交史料館)」 各国展覧会関係雑件 第一巻 40.全露ファシスト党主催反コミンテルン展覧会
- ^ Лейб-гвардии Преображенского полка» в исполнении Оркестра штаба Ленинградского военного округа
- ^ К. В. Родзаевский. Завещание Русского фашиста М., ФЭРИ-В, 2001
参考文献
- 長谷川公昭『世界ファシスト列伝』中央公論新社・中公新書ラクレ、2004年、186-194頁。
関連項目
外部リンク
ロシアファシスト党
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「コンスタンチン・ロジャエフスキー」の記事における「ロシアファシスト党」の解説
1931年5月26日にファシスト政党ロシアファシスト党の結成に参加し事務局長に就任した。1934年にはアナスターシー・ヴォンシャーツキー(英語版)のロシア民族労働党と合併し実質的な指導者に就任し、1936年に党首に選出された。ロジャエフスキーはベニート・ムッソリーニをモデルとし、党旗にはナチ党をモデルにした鉤十字を採用し、党章にはロシア帝国の双頭の鷲を使用した。また、自身の周囲を選抜した護衛で固め、黒シャツ隊をモデルに黒い制服を着用させた。ロジャエフスキーは党機関紙『私たちの道と国家』に反ユダヤ主義的主張を掲載し、著作『20世紀におけるユダヤ人問題』を著している。 1934年、ロジャエフスキーは満州国白系露人事務局の第二部長に任命された。また、関東軍の庇護を受け武器を提供され、ハルビンを拠点に反共運動を組織し、世界26か国に支部を設立した。ハルビンでは1万2,000人の党員を獲得し、満州里に鉤十字のネオンライトを設置しソ連に対して存在を誇示した。紀元二千六百年記念行事の際にはハルビンでの式典に参加した。ロジャエフスキーは関東軍の協力の下、白軍のウラジーミル・キスリーツィン(英語版)と共にロシアを「解放」することを望み、関東軍から撹乱工作の訓練を受けていた。
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