ロシア、ポーランド、リトアニアの間で
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「スモレンスク」の記事における「ロシア、ポーランド、リトアニアの間で」の解説
1125年にはロスチスラフ1世が公となり、以後15世紀までその子孫であるロスタスラヴィチ王朝が続いた。1136年からはスモレンスク主教が置かれるようになり、1229年にはハンザ同盟とも協定を結んだ。 スモレンスクは、1240年のモンゴル帝国襲来では破壊されず助かったものの、以後ジョチ・ウルスへの貢納を強いられる。勢力を増す西方のリトアニア大公国の影響下でジョチ・ウルスのくびきからは解き放たれたが、ロシア諸国の中で頭一つ抜けた勢力を持つようになったモスクワ大公国とリトアニア大公国との間の争いに巻き込まれる。ロスタスラヴィチ朝最後の公であるユーリ・スヴャトスラヴィチの悲惨な治世には、ヴィータウタス大公率いるリトアニア軍に三度街を陥落させられ(1395年、1404年、1408年)ついにリトアニアに編入された。サピエハ家などスモレンスク公国のボヤーレ(大貴族)はリトアニアの首都ヴィリニュスへ移ったが、タチーシチェフ家、クロポトキン家、ムソルグスキー家、ヴャゼムスキー家などスモレンスク公の親戚にあたる貴族はモスクワへ逃げた。 万単位の市民が住むスモレンスクは15世紀のリトアニア領でもおそらく最大の街であった。ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団との間で起こったタンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)ではスモレンスクから送られた三個の連隊が決定的な役割を果たした。しかし1514年、モスクワ大公国のヴァシーリー3世がスモレンスクを奪取し(スモレンスク包囲戦 (1514年)(ロシア語版、英語版))、リトアニアには打撃となった。スモレンスク奪還を記念して、ツァーリはモスクワにノヴォデヴィチ女子修道院を設立し、これをスモレンスクの生神女のイコンへ捧げた。 ポーランド・リトアニア共和国軍がスモレンスク奪還を目指し何度も包囲戦を行ったため、16世紀末のツァーリ・ボリス・ゴドゥノフはスモレンスクの城郭の強化を緊急の政策とした。1597年から1602年にかけて建設された石造りのクレムリ(城塞)は非常に分厚い城壁と多数の見張り塔を備え、当時のロシア最大のものだった。 リューリク朝が断絶し、この頃からロシア・ツァーリ国は動乱時代と呼ばれる混乱期に入る。ロシアのツァーリ位をめぐる争いにポーランド・リトアニアが介入し(ロシア・ポーランド戦争)、1609年にはジグムント3世率いるポーランド・リトアニア共和国軍がスモレンスクを包囲し(スモレンスク包囲戦 (1609年 - 1611年)(ロシア語版、英語版))、以後20ヶ月に及ぶ長い攻城戦が続く。ミハイル・シェインに率いられた少数のロシア兵は必死の戦いを続けたものの、ついに1611年に落城した。弱体化していたロシア・ツァーリ国は、1618年に結ばれた「デウリノの休戦」でスモレンスクをポーランド・リトアニア共和国に割譲した。その後43年間スモレンスク県(ヴォイェヴツトフォ)の県都となり、スモレンスク郡とスタロドゥーブ郡が置かれた。 ロシアはスモレンスク奪取のため、デウリノの休戦で定められた14年半の休戦期間が過ぎると戦争を仕掛けた。これが1632年から1634年まで続いたスモレンスク戦争であるが、ポーランド王ヴワディスワフ4世の前にロシアは大敗を喫しポーランド・リトアニア共和国がスモレンスクを守った。1632年には東方典礼カトリック教会の司教レウ・クレウサ(Lew Kreuza)がスモレンスクに邸宅を構えたが、これは後にロシア正教会の聖堂に変えられた。やがてウクライナ・コサックの反乱とポーランド・スウェーデン戦争[要曖昧さ回避]の勃発でポーランドは大洪水時代と呼ばれる内戦期に入るが、これを契機にロシアとの戦争も再発し(ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年))、1654年9月23日には包囲戦の末ロシアがスモレンスクを占領し(スモレンスク包囲戦 (1654年)(ロシア語版、英語版))、ポーランド軍は退却した。1667年、アンドルソヴォの和約でポーランド・リトアニア共和国はついにスモレンスクに対する主張を取り下げた。
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