ローマ皇后として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:23 UTC 版)
「ドミティア・ロンギナ」の記事における「ローマ皇后として」の解説
彼の皇帝就任に引き続いて間もなく、ドミティアヌスは名誉称号のアウグスタをドミティアに贈っている。同時に、彼らの死んだ息子を神格化もしている。この両方は治世中ずっと、コインとして発行されている。にも関わらず、この結婚は、83年に重大な危機に直面する。ドミティアヌスはドミティアを少しの間追放し、そしてすぐに呼び戻している。追放の理由は愛が冷めたからなのか、姪のユリア・フラウィアと関係を持ち続けていたという噂からなのか、いずれにしてもわかっていない。スエトニウスによると、ドミティアが追放されたのは、パリスと言う名の有名俳優(en:Paris (actor under Domitian))との不倫が理由である。事実かどうかは疑わしいが、不倫を知ったドミティアヌスはパリスを路上で殺して即座に妻と離婚したと伝えられている。さらにスエトニウスは、ドミティアが追放されるやいなやドミティアヌスはユリアを愛人にして彼女は後に中絶の失敗で死んだと付け加えている。 現代の歴史家はこの噂を非常に疑わしいと考えており、これらのストーリーの幾つかは暴君としてのドミティアヌスに有罪とされ、敵意を持った元老院議員の筆によって広められたと考えている。ドミティアが不貞を働いたとする悪意ある噂は、しきりに繰り返された。そしてこうした噂は、個人的には不摂生に更け、堕落した裁判所取り仕切っているにも関わらず、公然とアウグストゥスのモラルに回帰しろと説教する統治者の偽善性を強調するのが常である。 ドミティアヌスは妻を追放した。しかしジョーンズはドミティアヌスがそうしたのは、彼女が後継者造りに失敗したからという可能性が高いと、論じている。それにもかかわらず、パリスとの姦通というドミティアに関する噂は、ドミティアヌス治世に十分流布した。そして彼は自身の結婚に向けられた侮辱的言動を軽はずみには取り合わなかった。ドミティアヌスの就任からそう間を置かずに、ティティス治世中以前の冗談によってアエリウス・ラミアは死を受けさせられる。93年に、ヘルウィディウス・プリスクス(en:Helvidius Priscus)の息子は、ドミティアヌスと妻の別離を風刺した笑劇を創作したことによって処刑された。しかしながらユリアとの情事に関する様々な噂は、おそらくドミティアヌス治世以降の作家による創作のようである。彼女は自然死であり、死後すぐにドミティアヌスによって神格化された。 84年にドミティアは皇宮に復帰する。そこで彼女は何の事件もなしに残りのドミティアヌスの治世を送った。ドミティアが皇后としてどのように活動し、そしてドミティアヌス治世においてどれほどの影響を震ったのかについてはほとんど伝わっていない。しかし彼女の役割は式典に出席することにほぼ限定されていたようである。スエトニウスによって、彼女は少なくとも劇場まで皇帝に付き添っていたことは伝わっている。また、ユダヤ教徒の作家フラウィウス・ヨセフスは彼が彼女から受けた義援金について記述している。 83年の危機にもかかわらず、彼らの関係は幸福であったようだ。ドミティアヌスは生涯、他の女性と結婚しなかった。
※この「ローマ皇后として」の解説は、「ドミティア・ロンギナ」の解説の一部です。
「ローマ皇后として」を含む「ドミティア・ロンギナ」の記事については、「ドミティア・ロンギナ」の概要を参照ください。
- ローマ皇后としてのページへのリンク