ローマ皇帝崇拝における女神ローマ
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「ローマ (ローマ神話)」の記事における「ローマ皇帝崇拝における女神ローマ」の解説
ユリウス・カエサルは暗殺によって神格化され、ローマおよび東方植民地の守護神として信仰された。カエサルの後継者アウグストゥスは内戦を終結させ、プリンケプスとなった。そして紀元前30年ごろ、アジア属州やブリタンニアからはアウグストゥスを生きながら守護神として祀ることの許可を求める声が届いた。共和政ローマではヘレニズム的な君主制を軽蔑していたが、あからさまな拒絶は地方民と同盟国を怒らせる可能性があった。そこで、「非ローマ人は女神ローマと共にならアウグストゥスを守護神として信仰してもよい」という注意深い見解が示された。このための神殿が2箇所で用意された。すなわち女神ローマは最初期の「皇帝崇拝」の形態に吸収された。あるいは東方からの観点では、伝統ある女神ローマ信仰の上にアウグストゥス信仰が接木するように生じた。それ以降女神ローマは皇帝やその配偶者の神聖性を引き立てる役を担うことになったが、ギリシアの硬貨の図案には女神ローマを中央に配し皇帝などを従者のように配したものもある。 皇帝崇拝は東方の独創性に対する実用的かつ巧妙な反応として生じた。伝統的宗教の要素をお色直しして共和政政府と混合し、元首の下での帝国の一体感を示す斬新な枠組みを生み出し、成功を収めた。西方のガリア、ゲルマン、ケルトには君主崇拝の伝統もローマ的な管理体制もなかった。ルグドゥヌムには皇帝崇拝のセンターができ、ローマをモデルとした州あるいは自治体単位の議会が導入され、地元の上流階級の人々は皇帝崇拝の神職の選挙を通して市民権の利点を享受した。その祭壇は女神ローマとアウグストゥスのものだった。その後、女神ローマは西方でも貨幣や金石文によく登場するようになった。女神ローマに言及する文献は少ないが、それは無視されたからではなくあまりにも一般化したためではないかと推測される。初期のアウグストゥスの時代、女神ローマは生きた皇帝の配偶者の上で称えられたと見られる。 アフリカ属州では、女神ローマとアウグストゥスの神殿がレプティス・マグナとMactarにあった。イタリア半島では6箇所の神殿が見つかっている。ラティウムには2つあり、そのうち1つは個人が建てたものである。ティベリウスの時代には、オスティアに女神ローマとアウグストゥスの大きな神殿があった。 ローマ市内での初期の女神ローマへの信仰は、ハドリアヌスが建設したウェヌスとローマ神殿で、ウェヌスへの信仰と組み合わせたものだった。これは当時市内最大の神殿で、Parilia という祭りを形を変えて復活させる意図だったが、その祭りは女神のローマの東方での祭りに倣って Romaea と呼ばれるようになった。この神殿にはヘレニズム風の女神ローマの座像があり、その右手にはローマの永遠性を象徴したパラディウムがあった。ローマでは、これは斬新な具現化だった。ギリシアでローマを威厳のある女神として解釈したことで、軍事支配の象徴だったものが帝国の庇護と厳粛さの象徴へと変わっていった。 女神ローマは地位は不確かなものである。クロディウス・アルビヌスがセプティミウス・セウェルスにルグドゥヌムで敗北すると、ルグドゥヌムの神殿から女神ローマ信仰が排除された。ローマとアウグストゥスは新たな抑圧された皇帝崇拝の対象となった。Fishwickはこのルグドゥヌムにおける儀礼の変化を奴隷による家長崇拝に類したものと解釈した。このような時期がどのくらい続いたのかは不明だが、これは他に見られない独自の発展だった。 その後のさらに混乱した時代でも、例えばプロブスはドミナートゥスの冠を被った姿を硬貨に描かせているが、裏面はウェヌスとローマの神殿を描いている。プロブスの肖像が専制君主の主権を示すのに対して、女神ローマはその主権があくまでもローマの伝統と帝国の統一に裏打ちされたものであることを示している。
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