ローマ社会の形成と共和政時代の建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:17 UTC 版)
「ローマ建築」の記事における「ローマ社会の形成と共和政時代の建築」の解説
紀元前2世紀以後、急速に進んだ社会構造の複雑化に対応するため、ローマではギリシア起原の建築も独自に修正され、都市の中に組み込まれていった。特に南イタリアでは、典型的なローマ建築と思われている建物、すなわち闘技場、劇場、そして恐らく公共浴場とバシリカが作り出された。共和政時代の都市が残るポンペイの遺跡では、紀元前55年に建設された最初の恒久的なローマ劇場と闘技場が残っている。バシリカもローマ領内では初期のものに属する。このように、共和制時代のローマ建築は、社会構造に適した建築を新たに作り出したり、あるいはギリシア由来の建築物を機能に沿うべく作りかえたりしていた。 共和政末期の紀元前45年には、ローマは地中海を中心として、大西洋から黒海に至る広大な領土を獲得した。そして、あらゆる都市に首都ローマの政治的・社会的構造と文化をもたらすことになった。フォルムとこれに付随するバシリカ、クリア、コミティウム、タブラリウム(公文書館)、サエプタ(投票所)、そして神殿などの公共建築は、首都の建築を直接、または間接的に模倣して建設された。現在のローマ市に残る共和政時代の世俗建築は紀元前78年に建設されたタブラリウムしかないが、オスティアやコーサなどの共和政初期に建設された植民市では、かつてローマに建設されていた建物を模倣した公共建築物が発掘されている。 ただし、植民市はローマの影響を受けるばかりではなく、保守的な首都に代わってローマン・コンクリートなどの新技術を取り入れる実験場の役割を果たしていた。代表的なものが、アーチとトンネル・ヴォールトの採用である。紀元前4世紀までにアーチの運用方法は確立されていたが、最初は目立たない場所か、あるいは倉庫などの美的観点が要求されないものに使用されていた。紀元前2世紀頃になると、ポンペイの円形闘技場やペルージャのポルタ・マールツィア門などに見られるように、建物の開口部をアーチの連続するリズミカルなものに変えてしまうほど活用され、やがてこれは首都ローマの建築にも導入された。このような運用が確立されると、オーダーは構造的な意味を失ってその権威も低下するが、オーダーが単なる装飾として意識されるようになるのは、さらに後の時代になってからである。 プラエネステ(現パレストリーナ)のフォルトゥーナ・プリーミゲニアの聖域は、共和政時代の最も完成された建築であり、しばしば初期ローマ建築の傑作とされる。この建築の正確な建設時期は議論があるが、ローマ建築がその独自性を最初に顕現させたスッラの時代、すなわち紀元前2世紀から紀元前1世紀の間と推定されている。「バロック的」と評され、階段状に組また5つのテラスを上がるごとに建物の姿が現れる仕組み、アーチによってリズミカルにまとめられた立面、そしてローマン・コンクリートによる格間ヴォールトなど、あらゆる要素で時代を先取りした建築となっている。
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