スイスとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:45 UTC 版)
「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「スイスとの関係」の解説
ローマ皇帝フリードリヒ2世がハプスブルク家にウーリの帝国代官職を与えて以来、ハプスブルク家はスイスの都市と敵対したが、ある時は都市間の抗争の仲裁者も務めた。ルドルフ1世のスイス統治は、中世スイス国家の形成に深く影響を及ぼした。 市民と司教の抗争が起きるシュトラスブルク(ストラスブール)においてルドルフは市民側を支持し、1259年に母ハイルヴィヒの土地の返還を拒否したシュトラスブルク司教を市から追放した。ローマ王選出直前に、ルドルフはラウフェンブルク=ハプスブルク家から土地を購入したことで、東はザンクト・ガレン、西はアーラウ、北はライン川北岸、南はウーリに広がる支配領域が形成され、スイス北部に塊状の支配地を現出した。そして、ルドルフはこれまでにハプスブルクが所有していたアルザスの領地と北スイスの支配地を結ぶ要所であるバーゼルの制圧を図った。1264年に教皇派(ゲルフ)のハインリヒ・フォン・ノイエンブルクがバーゼル司教となり、ルドルフはバーゼル市と衝突した。ルドルフのローマ王選出直後に結んだ和平によってバーゼルの独立は維持され、アルザスとスイスにまたがるハプスブルク領邦国家の成立は中断した。 ローマ王に選出されたルドルフは、これまで敵対していたスイス都市共同体に自由と自治を保証する「保護者」に立場が変わる。ウーリに自由と自治を認める「帝国自由」の特許状を承認したが、シュヴィーツには特許状を認めなかった。ルドルフはローマ王在位中にオーストリア獲得に注力しており、スイスでは積極的な抑圧策を敷かなかった。だが、ルツェルン、ツーク、グラールスなどのスイスからアルプス山脈を越えて平野部に出るための要地を購入し、スイス都市に包囲を敷いていた。1280年代末からスイスに積極的な介入を行い、独立性を高めていたウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの森林三州と対立する。 1291年にルドルフ死去の報告がスイスに届くと、1291年8月にウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン(ニトヴァルデン)の代表者がリュートリで密かに会合し、盟約者同盟を結んだ伝承が残る。
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