スイスと福音主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 17:02 UTC 版)
「スイスの宗教改革」の記事における「スイスと福音主義」の解説
ドイツでルターによって宗教改革の火蓋が切られた頃、スイスでもほぼ同時にツヴィングリによって福音主義的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、ジュネーヴにカルヴァンが現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に非寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、近代的な政教分離の主張へとつながった。 12世紀末ごろまでは神聖ローマ帝国辺境に過ぎなかったスイスは、13世紀の初め頃に南北に貫通する街道が開通すると、一転交通の要衝となった。このことによりスイスは、近隣に支配を拡大しようとしていたハプスブルク家と戦略的価値を重視する皇帝の争奪の的となることとなった。1231年皇帝フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒはウーリ地方に証書を発給し、この地方を帝国直属とした。帝国直属という地位は帝国都市と同等であり、他の諸侯の影響を受けないことから「帝国自由」と呼ばれ、国家形成に通じる自治を可能にするものであった。 1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した。やがてウーリ州が自治権を獲得し、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州と1291年に永久盟約を結んだ。これはラント平和令の延長線上に、域内でのフェーデの制限・禁止を目的としたものであった。ヴィルヘルム・テルの物語はスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものである。 1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ美王は1315年11月15日大軍をもって侵攻したが、モルガルテン山からの奇襲攻撃によって敗北を喫した(モルガルテンの戦い)。1499年、皇帝マクシミリアン1世がハプスブルク家の古領を回復しようと戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争)、盟約者団はこれを撃退し、事実上神聖ローマ帝国から独立した。1513年のアペンツェル同盟において13州の形となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みの基礎となる十三邦同盟体制が確立され、この体制が1798年まで維持された。 ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となったスイスは、イタリア戦争に介入し、1513年のノヴァーラの戦い(フランス語版、ドイツ語版、英語版)でフランス軍を大敗させ、ミラノを中心とするロンバルディア地方に覇権を確立したかに見えた。しかし1515年にルイ12世が没し、フランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い(英語版)で盟約者団はこの若き王に敗北し、南方へ向けての膨張の夢は潰えた。
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