同盟軍のミラノ占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/06 23:40 UTC 版)
「サン・ピエトロの戦い」の記事における「同盟軍のミラノ占領」の解説
1733年10月、カルロ・エマヌエーレ3世率いる4万人以上のフランス・サルデーニャ連合軍はオーストリアの駐留軍約1万2千を差し置いて、ほぼ無抵抗でミラノ公国を占領した。1734年2月にトルトーナまで占領すると、フランス軍は冬営に入った。 1733年11月、すでに81歳の老将ヴィラール元帥は連合軍と合流した。しかし、ヴィラールとカルロ・エマヌエーレ3世は戦略について合意できなかった。というのも、フランスに不信感を持っていたカルロ・エマヌエーレ3世はミラノを自分のために確保しようとし、ヴィラールはアルプス山脈の通り道の南側を確保して、オーストリアからの援軍がイタリアに到着することを防ごうとした。カルロ・エマヌエーレ3世がわざと軍事行動を遅延する策に出たため、怒ったヴィラールは1734年5月に本国へ召還されることを求めた。彼はフランスへの帰途で病気になり、6月にトリノで病没した。フランス軍の指揮は元帥に叙されたフランソワ=マリー・ド・ブロイとフランソワ・ド・フランクトー・ド・コワニー(英語版)が継いだ。 1734年6月末、カルロ・エマヌエーレ3世は妻のポリッセナ・ダッシア=ローテンブルグが病気になったと称し、トリノへ戻った。彼はフランス軍に自分が戻るまで侵攻を再開しないよう求めたが、これは彼の遅延戦術の一環とされた。
※この「同盟軍のミラノ占領」の解説は、「サン・ピエトロの戦い」の解説の一部です。
「同盟軍のミラノ占領」を含む「サン・ピエトロの戦い」の記事については、「サン・ピエトロの戦い」の概要を参照ください。
- 同盟軍のミラノ占領のページへのリンク