トリノへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/26 01:04 UTC 版)
「フェリーチェ・カゾラーティ (画家)」の記事における「トリノへ」の解説
父が1917に死去すると一家はトリノに転居し、フェリーチェはすぐに町の知識人サークルの中心的人物となった。作曲家アルフレード・カゼッラのもとに通って音楽への情熱を分かち合っていたが、そのことは「毎晩少なくとも30分はピアノに向かい、ただ自分たちのた演奏していて、しばしば私の母と連弾をしていました」というカゼッラの息子の証言からもうかがえる。ピエロ・ゴベッティとも交友関係を結び、1922年には反ファシストグループ「自由主義革命(Rivoluzione Liberale)」に加わったが、そのために逮捕されもした(数日後に釈放されている)。1923年にゴベッティはフェリーチェの伝記を書いている。 この頃トリノのスタジオに「カゾラーティ学校(Scuola di Casorati)」を開設し、若い芸術家を教えていた。1929年には門下生とともに展覧会「カゾラーティとその門弟たちCasorati fra i discepoli」を開催した。ジャコモ・デベネデッティが寄せたテクストでは、その門下生としてシルヴィオ・アヴォンド、ネッラ・マルケシーニ、ダフネ・モーガン、マリサ・モーリ、アンドレア・チェファリー・ジュニア、セルジオ・ボンファンティーニ、ジュゼッピーナ・フェラリス、アルビーノ・ガルヴァーノ、パオラ・レーヴィ・モンタルチーニ、ラッラ・ロマーノ、リッカールド・キッコの名が挙げられている。 教員には「トリノ六人組(Sei pittori di Torino)」の一部をなすフランチェスコ・メンツィオ、カルロ・レーヴィ、ジジ・ケッサ、ジェジー・ボスウェルが名を連ねている。門下生にはほかにピエモンテの画家エンリコ・アッカティーノやケイティー・トルタ、社会主義の政治家ピオ・ドナーティの妻で現代画家のイーダ・ドナーティ・フォルミッジーニもいた。 1924年にはヴェネツィア・ビエンナーレで個人展示室を得、これに美術評論家リオネッロ・ヴェントゥーリが展評を寄せた。1925年には国内外の19世紀および同時代の芸術家の展覧会を振興する目的でアントニオ・フォンタネージ美術会社(Società di Belle Arti Antonio Fontanesi)を共同で設立する。1923年から1925年のあいだに、ジジ・ケッサとリッカールド・グアリーノのとともにトリノの劇場を再整備する企画を実現させた。フェリーチェはガッリアーリ通りに位置するこの小規模な劇場の装飾を建築家アルベルト・サルトリスとともに担当した。劇場部分は1925年4月に落成し、残りの部分も1929年のおわりまでに公開された。 1927年にはモンツァの産業美術高等専門学校(Istituto Superiore per le Industrie Artistiche)が主催する第三回装飾美術ビエンナーレでは再びサルトリスと組んでピエモンテの展示館を手掛けた。1933年にはさらにミラノ・トリエンナーレの建築展のアトリウムを手掛けた。 1926年と1929年には美術評論家のマルゲリータ・サルファッティの呼びかけで20世紀イタリア美術(Novecento italiano)展に参加したが、ここでフェリーチェはこのムーブメントのなかにあって独立した評価を得た。 1930年にはイギリス人のダフネ・モーガンと結婚する。ダフネは1926年からフェリーチェの教室に通っていた門下生のひとりであった。二人の間に生まれた息子フランチェスコも、のちに画家となった。1935年にカゾラーティとエンリコ・パウルッチのスタジオは「第一回イタリア抽象美術合同展(Prima mostora collettiva d’arte astratta italiana)」を迎え入れ、リチーニ、メロッティ、フォンタナの作品に理解を示した。1938年の第21回ヴェネツィア・ビエンナーレでは絵画部門の大賞を得た。こうした公式の評価を受け、のちの約30年間にわたって、パリ、ピッツバーグ、サンフランシスコなどで大規模な展示がお行われた。
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