ブルガール人の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 09:35 UTC 版)
「ブルガリア・東ローマ戦争」の記事における「ブルガール人の進出」の解説
大ブルガリアを築いたクブラト・ハーンの死後、ブルガール人の各部族は分裂し、東方のハザール人の攻撃を受けて西方に落ち延びるように進出していったそのうちの一つである、アスパルフに率いられたブルガール人部族はドナウ川のデルタ地帯に拠点を築き、現地のスラブ人と同盟関係を築いた。これを脅威と見た東ローマ皇帝コンスタンティノス4世は680年にブルガール人を討伐したが敗北してしまい(オングロスの戦い)、逆にモエシアを占領されてしまった。東ローマはブルガール人の移住と建国を正式に認めるという条約を結んだ。
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