民族の祭典:ハンバッハ祭とドイツ国民運動
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「反ユダヤ主義」の記事における「民族の祭典:ハンバッハ祭とドイツ国民運動」の解説
1818年に公布されたバイエルン憲法では出版の自由も明記されるなど、ナポレオン法典で認められていた権利が保証されていたが、1830年のフランス7月革命以降、バイエルン王国政府は検閲を強化した。ジャーナリストのヤコブ・ジーベンプファイファーとゲオルク・ヴィルトはドイツの再統一のために自由な言論は唯一の手段であるとする「ドイツ自由出版祖国協会」を結成したが、バイエルンほかプロイセンやハンブルクでも禁止された。ジーベンプファイファーは憲法記念祭に代わる「民族祭典(Volksfest)」を計画して、5月27日に「ドイツ5月祭」をハンバッハ城で開催することを宣伝した。このハンバッハ祭は「内的 ・外的な暴力廃止のための祝祭」であり「法律に保証された自由とドイツの国家としての尊厳の獲得」を目的とした。ライン・バイエルン政府では、フランス占領時代から集会は禁止されていたが、祝典(Festmahl)や民族祭典(Volksfest)は許可されていた。しかし、祭典を禁止しようとしたライン・バイエルン政府に対して参事会が反対し、政府は禁止命令を撤回したが、撤回は前代未聞であり、政府の敗北とみなされた。 こうして1832年5月27日から6月1日までバイエルンのプファルツに3万余が集まった「ドイツ5月祭=ハンバッハ祭」が開催され、ドイツ統一と諸民族の解放、人民主権や共和制の樹立などが叫ばれた。参加者は「ドイツ祖国とは何か」「輝きの渦のなかの祖国」といった歌を歌いながら行進し、医師ヘップはドイツ統一とドイツの自由によってドイツは再生すると演説した。ハンバッハ祭にはドイツの自由の守護神として学生たちから歓迎されていたユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネがパリから参加した。ベルネは、ポーランド・ロシア戦争でユダヤ人3万人がポーランド支援のためにかけつけ、ポーランドという祖国を戦い取ろうとしているのに対して「ユダヤ人をひどく軽蔑している誇り高く、傲慢なドイツ人には祖国が未だない」と述べている。また、フリッツ・ロイターも参加した。 ジーベンプファイファーは演説で「国民と呼ばれるうじ虫は地べたをうごめきまわっている」と述べ、祖国の統一を望むことさえ犯罪になるのだと主張し、34人のドイツ諸国家の君主を「国民の虐殺者」と罵り、君主が王位を去り市民になることを求めた。ヴィルトは祖国の自由のための戦いには、外国の介入なしで独力でなされなければならないと愛国主義を演説した。しかし、その後の演説では、革命を望まないという商人の演説がなされる一方で、弁護士ハルアウァーは臆病な奴隷でいるよりも名誉の戦死をすべきだと訴えたり、ブラシ職人ベッカーは武装市民だけが祖国を守ると演説するなど意見が分かれた。祝祭後、指導者は臨時政府国民会議の結成を模索したが、結局、祖国出版協会名が「ドイツ改革協会」に変わるにとどまった。 パリにいたハイネはドイツの本質は王党主義であり、ドイツは共和国ではありえず、ドイツ革命もドイツ共和国の誕生もそんなに早くはこない、と同情しながら批判した。ハイネは革命を説くベルネに対して「テロリスト的な心情告白」として批判し、ベルネが「最下層の人々のデマゴーグ」になったのは「人生において何もなしえなかった男の自暴自棄な行動」と非難した。ベルネもハイネも改宗者であり、ドイツ人名に改名していた。 ハンバッハ祭後、ドイツ各地で倉庫や市場が過激派によって襲撃されるなど、混乱が広まり、1832年6月24日、バイエルン政府軍は戒厳令を発令した。メッテルニヒは革命運動の拡大を恐れて弾圧を強化し、ヴィルトやジーベンプファイファーなど多くの活動家が逮捕拘禁されて有罪判決を受けた。1833年4月には「出版祖国協会」過激派50人がフランクフルトで警察を襲撃し、1800人が逮捕された。しかし、その後もドイツ国民運動は非政治的な協会の姿をとって持続し、10万人以上のメンバーを持った男性合唱協会はドイツ語の民謡を普及させ、またヤーンの体操協会なども、ドイツ国民意識の形成に大きな役割を持った。
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